チリの風  特別編  チロヱの旅(3)

三日目 1月20日(月)
八時、朝食をとってから、ペンションを出発。バス停にいそぐ。早く目的地に行きたいので、昨日のようにバス・ターミナルまで歩かず、市内バスに乗ることにする。バス代はサンティアゴの半分、150ペソだった。乗った距離は短いが約20円だから、やっぱり安い。
 ちょうど、アチャオ行きのミニバスが出るところだった。昨日聞いた始発は九時発だったが、それは大型バスのもので、それより先にミニバスが出るのだった。どれでも良い、早く着ければ。ラッキー。
 舗装、未舗装の道を走って、バスは二十分でダルカウエに。途中一箇所で製材所を見た。全部、木は切られているように見えても、道路沿いでないところにまた森が残っていることが分かる。
ここでバスはフェーリーに乗る。その前に乗客の大半はこの町で降りた。学生とか事務員風の女性だ。カストロに住んで、この町で勉強、仕事をしているのだろう。
 この町にも立派な教会があって、その前を通過した。ここにもホテルがあるし、銀行もある。しかしチロヱの島も意外と発展している。貧乏なインディへナの人たちの島と言うイメージがあったが、それは全くの誤りのようだ。
 フェリーは5分くらいで対岸に着いた。いよいよ島めぐりだ。もっともチロヱ本島からキンチャオと言う小島に渡っても景色が一変すると言うことは無く同じようなのどかな景色が続く。
 今までの通勤客が姿を消し、観光客の間に島の住民と言う雰囲気。目的地アチャオには十時に到着した。

 バスのターミナルは、屋根がついていて雨の日も濡れずに乗り降りできるようになっている。さて荷物を背負って、小雨の中、町に向かって歩き始める。
今日も雨だ。毎日雨なので、雨を特に恐れることは無くなった。
 目的の教会の前を通った。もちろん立ち止まってゆっくり眺めたが、中に入るのは後にする。楽しみは置いておいて・・・という感じ。
 港の方に歩いていったら、随分多くの人が港から町のほうに歩いてくるのに出会った。何があったのかと見に行く。
 降りてきた二人組みの女性と話を始める。ここから二時間半の航海でつく島で昨日まで宗教上のお祭りがあって、今降りてきたのは全員それに参加してきた人と言う。雨に降られて大変だったらしいが、その雨の中、参加者は踊っていたらしい!!!!
 じゃ、あなたがたも熱心な信者なのですねと聞くと、私たちはオソルノから民芸品を売りにきています。で、これからカストロへ向かう予定とか。いずれにしても私がケジョンで経験したような雨を、その島で、またこの船の上で味わったのだろうが、熱気と言うのはすごいものだ。雨もものともせず、お祭りを続行するのだから。私もその島に行ってみようかと一瞬思ったが、二時間半という航海に二の足を踏んでしまった。今になって後悔しているが、やはり行きたいと思ったらどこにでも行くという気迫をなくしたら、旅は続けられない。
 次回のチロヱの旅はそういう離島めぐりをしてみたい。

港で店を出している行商のおばちゃんの会話を聞いていたら、よく聞き取れなかった。やっぱり方言と特別の言い回しがあるのだろう。面白い。
 二人と別れてから、ペンションを探す。海に面した民宿があるはずと、歩いている人に聞いてみたら、ちゃんとそれに該当するホテルがあった。でもそこに行ってみると海に面した部屋は二人用で、一人用の部屋は窓の小さな所だったので、断って外に出る。
 リュックを持ったまま宿探しをしているので、出きれば早く見つけたいところ・・・。通りががかりのおっさんに聞いてみると、この通りの次の角にあると言われそのとおりに歩いたら、無かった。もう、いいかげんなことを言うのだから。自分の住んでいる町でホテルを探すことは無いだろうが、これだけ小さな町だから、一軒くらい知っていても良いのではないか。それから、知らないとは言いにくいので、良い加減な情報を流したのかもしれない。
 ちょうど観光案内所があったので、そこに入る。教会の近くにありますよと言われ、そうかさっき確かにその前を通ったと思い出し、そっちに向かう。
 最初の一階の部屋はうす暗かったので、窓の大きな部屋が欲しいのですがと、言うと二階の角の部屋を見せてくれた。二面が窓でばっちり、私の好みだ。朝食込みで3500ペソといわれ、すぐに前払いする。
さて宿が決まったので、もうゆっくり歩ける。まずは博物館だ。たいてい小さな町の博物館は面白くない。世界に通用するような立派なものが置いてあるわけでなし、たんにその辺のガラクタに毛の生えたようなものが陳列されているだけだから。もちろん、それでもこの地方に思い入れがあれば、昔使われていた家具なんかを見ても興味が沸くが、まったく知らない町で、山田さんの家具とか、鈴木さんの衣服と言った一般市民の生活用具が展示してあっても、なんとも面白みがわかない。
 受付の女性に二つ、三つ質問をしたが、何もしらないようだった。ここでチロヱについて書かれた本を一冊買う。まぁ少しは勉強して、本稿も少しは値打ちのあるものにしないと読者に読んでもらえないから。
 しかしここのインディへナの歴史を大事にしたのが、カトリックのジェスイット派の人間だったと言うのが面白い。
 町役場でこの町の人口を聞くと、村だけでは2000人とのこと。この他にこの町役場に属する小さな離れ小島がその管轄に入っているらしい。チロヱが
チリ本土から見ると小さな島で、それにくらべるとこのキンチャオの島は小さなもので。その前に幾つもある離れ小島は更に小さい。
さてこの村も、結構立派な家が町のはずれに並んでいる。近くを歩くと快適な暮らしが垣間見られ、なんだか、私もこの町で住めるような気がしてきた。

さぁ、気合が入ってきたので教会に向かい、中に入る。か、感じる。これを作った人間の意気込みが。ひしひしと。フーム。
入り口から、祭壇の所まで、床、天井、壁・・・じっと眺めながら歩いていると、ここで観光客に説明する係りの青年が私のところに近づいてきた。説明させてくれますか?もちろん、どうぞ。なんでも、話を聞きたい。
祭壇のところで、右側の像はここで作られたものですがセンターのそれは欧州からもってきたものです。それに下の台は、この教会より古いものです。と言うのは、欧州から持ってきて自分たちが使っていたものを、この教会の建造時、再使用したと言うことです。そうか、今は祭壇で信者を見守っているようなこれらのものが、当時は何とか神父が、使っていた個人用の台とか、飾りだったりするわけだ。しかし彼らはこの教会が出来ていくのをどんな気持ちで見ていたのだろう。
基礎の石を置いて、それにあけた穴に台柱を立て教会を建てていった。今その柱を覆う飾りが古くなってきたので、順次入れ替えています。これがオリジナル、あっちは新しくしたもの。説明を受けながらもう一度教会内をまわる。
ところで、何故ここが島で一番古い教会なのか不思議だった。ここが戦略的な意味からチロヱ島で最重要な位置とは思えないからだ。
それを質問して、返ってきた回答は非常にリ-ゾナブルなものだった。一番古い教会はカストロにあった。二番目のそれはアンクッ(この町の名前はDで終りANCUD, 最後のDははっきり発音されないからアンクドやアンクよりアンクッに近い)。でもそれら二つは火事で燃えてしまい、三番目のここが島で一番古いものになった。1730年の事だ。納得。それにしても、ここに古い教会があると言うことは、このアチャオの町の前に見える更に小さな小島群に住む人々への宣教のためだろうが、それらの島々には現在でも三百人とか五百人しか住んでいないのだから。当時の人口はさらに少なかっただろう。しかしそんなわずかな人々のためにそれだけの力が、結集されるというのが理解できないが。
このアチャオの町の教会建設に何人の人が働いたのか?エジプトのピラミッドじゃないから教会は当時の失業者を全部吸収して労働者として使用したのではないだろう。彼らは自分たちの仕事、農業、漁業などを持っていて、その他に時間があれば協力したのではないか?教会がお金を払って雇用したのではないだろう。しかしそれなら、疲れた身体を教会の仕事に奉仕すると言う所まで、宣教(洗脳?)させる必要があったのだが・・・・・。
2000年の12月、チリ大統領が来て、これらの教会が世界遺産に指定されたお祝いの式を実施している。
最初から、ジェスイット派の人たちのことを説明しないで、話が進んでいるが、彼らの詳しい説明は、次の項(チロヱの旅 その4)でさせてもらう。

これだけ、緊張して教会を楽しむと疲れを感じた。じゃ、コーヒーでも飲もうかと海に面したレストランに入る。コーヒー飲めますかと聞いたらはいと言うので座ったら、インスタントのコーヒーだったので、がっかりしたが、田舎で本格的なコーヒーは無理かもしれない。
ウエートレスの女性に聞くと、近くの小島の出身で、ここで下宿をしながら仕事をしているという。最低賃金で働いているのだろうから、10万ペソくらい稼いで、5万ペソくらい食事付き下宿に払って、それでも生活が出きるのだろう。彼女にもあなたはペルー人ですかと聞かれた。
昨日も聞いたが、この島の労働者は大半が最低賃金で働いていると聞いたが、それでも人々が極貧の暮らしをしているようには見えないのが不思議だ。
お金がないとこの島での観光に困ると、プエルト・モンでおろして来た現金がほとんど減らないのが面白い。
味はともかく二階の窓から海を見ながらコーヒーを飲んで、気持ちが落ち着く。さて次は、この島にある、チロヱで最も大きな教会見学だ。
良かった、この紀行文も盛り上がってきた。最初は内容が乏しくどうなることかと心配したのだが。

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ここでジェスイット派の人たちの説明をしておきたい。今からもう10年前になるが、私が家族とともにパラグアイを訪問したとき(1993年)彼らの遺跡を訪問したのが、最初の邂逅ということになる。そのときに書いた旅行記をもとに、彼らについて説明したい。

 サンティアゴ地下鉄のホームの掲示板にポスターが貼ってあって、それによると今年(1993年)は彼らのチリ宣教開始400年記念にあたるそうで、各種の催し物が行われるとなっている。
 今日、チリで彼らがどのような地位を占めているのか、全然知識がなかったので、チリ人に聞いてみると、彼らもたいしたことは知らなかった。
「例の黒い衣服の神父さんでしょう?」とか「彼らの教会があるのは知っているが、どれがそれなのか詳しいことはわからない」とか。
 私はジェスイット派と書き始めたが、日本ではイエズス会と呼ばれるので、これ以降はイエズス会という風に書きつづけたい。スペイン語ではへスイッタと発音される。(JESUITA)
 一番最初に彼らの遺跡を「見た」のは、NHKの番組だった。それはコロンブスアメリカ到着500年ということで組まれた立花隆の思索紀行という番組ので、その中で彼らの遺跡が紹介されたのだった。
 このイエズス会の共同体は1609年に始まり「異端」としてバチカンによる彼らの南米からの追放令が出た1768年までの約160年間続いている。
 つまり始まりはインカ帝国が滅亡した1532年から約80年あとのことで、太平洋岸では既にスペイン化が進み、荘園の建設がはじまり、ボリビアの銀山から大量の銀が欧州に流れ込むころだった。
 新大陸にやってきたスペイン人、ポルトガル人は、富の移転、すなわちアメリカの富を欧州に持ち帰ることのみを考えていたわけで、ボリビアポトシでも、ブラジルのプランテーションでも原住民を奴隷として死ぬまで使い高収益(当然のことだが)を上げたことは歴史的に覆い隠すことが出来ない汚点だ。
 その際、カトリックは加害者側に立ち、陰に陽に、侵略者に支持を与えてきたことも事実だろう。
 そう言う状況下で、インディへナの側に立ち、共に生きようとするイエズス会が異端者になる可能性は、当初から存在していたといえよう。
 彼らはローマ法王がスペイン、ポルトガルと政治的決着を図り、イエズス会を南米から追放する命令を出したとき、どのような態度をとったのか?
 力で対抗しても、当時の世界最強国に勝てるわけが無い。また武器をとって立ち上がるというのは自分たちの教義に反している。さらに法王にそむくと言う行為を容認できるわけがない。
 しかし彼らの160年もの努力を法王の一片の命令で放棄し、教化したインディへナを村から追放し(村を閉鎖したということになるが)自分たちも南米から去っていくと言うのは、成績が上がらないと言う理由から会社をくびになる社員の深刻さと比較することはできないだろう。
 実際数十あったと言われるそれらの共同体で、追放に反対して、どれだけの流血惨事があったのか、浅学にして知らない。しかし、南米カトリック教会の本部があった、現在のアルゼンチン、コルドバからの指令で村が閉鎖され、カトリックの人間の手で自分たちが建設した教会を見なければならない彼らの心境はどんなものだっただろうかと言う想像は容易にできる。

 まだ説明不足で話が進んでいる。ここで10年以上前にヒットした映画「ミッション」のあらすじを紹介して当時の背景の説明としたい。
 帝国主義的拡張国家のスペイン、ポルトガルは軍事力をバックに欧州の覇権を握ろうとしていたが、その勢力を南米に拡大させるため、積極的に当地に進出していた。そして当初の目論見どおり、南米から巨大な富の収奪に成功し、さらに一時の金銀の略奪だけでなく、それを更に磐石のものとするため恒久的な植民地体制を整えつつあった。
 そこに「神の国」と言う治外法権的な自治体を自分たちの領土内に認める分けにはいかなかった。この認識から、バチカンに圧力をかけ、問題を起こしているイエズス会を南米から追放することにしたのだった。
 現在のブラジル、アルゼンチン、パラグアイにまたがる地域に建設されていたすべてのインディへナ共同体はただちに閉鎖されることになった。
 映画では、あくまでも村の存続をはかるグループがポルトガル軍との間で戦闘を開始すると言うストーリーになっていた。
 結果はスペイン人宣教師を含む自治体のほとんど全員が惨殺されて終わる。映画ではスペインとポルトガルの間の競争、談合、争いについてはふれられていないが、当然そう言った力関係がその背景にはある。

 この映画についてちょっと触れると、問題点の提起と言う点では評価できるが、1600年代の始めに始まり、それから160年たって終末を迎えているこの共同体の話を、全く時代を 混同(無視)したかのように捉えているのにはがっかりした。宣教師がイグアスの滝を登っていくのは、冒険映画のつもりだったのだろうか?ちゃんと道があるでしょ。
 またそこのインディへナ、グアラニー族は特に身長が低いわけではないのに、ピグミーのような背の低いインディへナを使っていたのにも困惑した。その方が映画にしたとき世界に配給しやすいと言うことだろう。つまりインディへナは純真で、馬鹿で、裸で、弓矢を持ってジャングルを走っていると言うステレオタイプの考えしかないのだろう。 
 ここまで書いて、話はまだ続くのだが、ちょっと筆を置こうと思った。私の話に興味の無い読者には、えらい長々とわからん話を書かれても、何の値打ちも無いよと言われそうだから。まぁ中には一人くらい、いやなかなか読み応えがあったと言ってくれる人も・・・・いないか?
 
 さてそのイエズス会の人間はチリにも進出し、サンティアゴから南下をはかり、このチロヱ島に着いている。
 私は今、その彼らがこの島で建設した教会の中で最大級のものがある、キンチャオの村に行こうとしている。
 バスターミナルに指定された時間に行く。一日に何本かしか出ていないので、このバスに乗れなければ今日はいけない。次のバスが最終なので、それなら向こうに着いて何もしないで戻ってくることになる。
 バスは満員だった。立っている人の間に身体を割り込ますように乗る。思い出した。昔、武蔵と二人でジンバウエのハラレでバスに乗ったときのことを。満員のバスで、外人風は私たちだけ。武蔵がそっと小声で、おとうさん、みんな黒人だねって。
 その日も、いかにも土地の人という服装、顔つきをした乗客が私をじっと見ていた。土地の人は普通バスに乗るとき、荷物を目一杯持っている。荷物が無ければバスに乗らないのではないかと思うくらいだ(つまり荷物が無ければ歩くわけです)。私が物珍しそうに彼らを見ているように向こうも、おっこいつは中国人かな、珍しいなと思って見ているのだろう。視線が気になる。
それでもバスは出発して、目的地、十数キロ離れたキンチャオの町を目指した。丘を越え手走る。海辺をはるか下に見るところでは、展望台が設定されていた。ここで座って眺めていれば、こういう景色の好きな私は長い間楽しめるだろうと思った。
私が教会を見に来たことを知っている人が、私にいきなり「ここだよ」と言った。まだ村にも着いてないところだ。言われて慌てて降りる。雨がかなり降り出し、壊れた傘をだして使う。私の他にもう一人「普通」のチリ人も降りた。
教会に近づく、鍵がかかって中には入れなかった。回りに村は無い。人家は何軒かあるけれど。
確かに大きな教会だ、扉の所から、隙間を覗き込む。少し見えたと言うだけで、満足しなければならなかった。雨が激しくなってくる。私と一緒に降りた人間はサンティアゴからきたカメラマンだった。雨の中、シャッターを切っている。
しようがない、私は教会の近くに一軒あったレストランに入った。定食を注文する。村のにーちゃんという感じの若者が数人となりのテーブルを使っていた。私の食事の準備ができたと頃、そのカメラマンが濡れながら店に入ってきた。狭い店なのでたくさんテーブルはない。私は彼を誘った。
 彼も私と同じく定食を注文した。話が始まる。彼は先日、小島であったお祭りに参加していたという。あの雨の中の大パーティー
 カメラが濡れないように気を使ったけど。結構良い写真がとれたはず。普通はテーマをもらってその取材で各地を回っているのだが、ときには自分の費用で、自分の見つけたテーマで写真をとる旅をしたいと熱意を持って語っていた。その彼のテーマが「祭り」なわけだ。メキシコから南の祭りを全部取りたいのだけどと悔しそう。つまり今回は仕事の旅行に自分の趣味をミックスしたものらしい。
 他の客が出て行って、私たちだけになる。そこでレストランの女主人と話を始める。彼女の母親はドイツ人で第2次世界大戦の後、チリに来て、最も南の地区に分類される第11州に入植。そこで青年と結婚して、彼女が生まれたわけだ。その彼女は大きくなって結婚し、ご主人と一緒に、そこより少し北になるこの10州のチロヱ島に住み着いたと言うわけ。しかし戦後の混乱期、ドイツを脱出するのは大変な事だったにちがいない。もっとも日本だって、移民として国を出て、南米に向かった家族は大変な数だ。それが「人生」なのだろう。
サンティアゴ?行った事あるわよ。でも好きにならなかった、あんなとこ。この方がずっといいわよ。ここには犯罪が無いし、家に鍵をかけなくても大丈夫よ。車だってかぎなんかかけてないわ。失業も無いしね。働く気があればだれだって仕事があるのよ。(もちろん、その仕事は最低賃金しかもらえない仕事だろうが・・・)
彼女は今の暮らしに満足している。そういう彼女の言い分もわかる。彼女のような生き方をする人間がいることも良く分かる。都会であくせくするだけが先進的な人間の生き方ではないということだ。
私も停年退職後、田舎に住むだろうと思っている。パソコンがあれば田舎で住んでも、都会に住んでも同じようなコンタクトを世界相手にもてるのではないだろうか?もっとも、その世界とのコンタクトさえしたくないと言う日が来るのかもしれないが・・・。

さて食事を終え、外に出る。雨は激しくふっていた。彼は傘を持っていない。彼はおばさんにビニールの袋をくれませんかと頼み、その中にカメラを入れた。
可能性は二つあった。この近くのキンチャオと言う村に歩くこと(ここから数キロらしい)、もう一つは元のアチャオに歩くこと。これには10キロ以上の距離となる。もちろんその間にバスに出会えば、乗ればよい。
で、彼は写真が取りたいからと、その村に向かうことになった。私はさっき通って来た峠の景色が忘れられなくてそこに戻ることにする。雨は激しいが、風さえ出なければ傘が使える(半分壊れているが、半分は役に立つ?)三時間も歩けば元の町に戻れるだろう。
じゃ、と言って別れて道路に出たとたん、バスが村の方から走ってきた。柔軟な思考の私たちは(もしくは軟弱な思考の私たちは)さきほどのプランをすぐに忘れそのバスで戻ることにする。3時間歩く所が1分だった?
バスに乗っていくらもいかないうちにバスが止まり、運転手がちょっと待ってね、5分だけと降りてしまった。
カメラマンは降りて写真撮影、私はバスに残ってメモを書き始める。しばらくして、トントンと窓を叩く音。彼が「雨やんだよ」で、外に出る。
するとさっきのレストランの女主人がやってきた。彼女も買いだしか何かで
アチャオの町に行くのだろう。彼女が私たちに、教会見たかと聞く。そのためにここに来たのだが、鍵が掛かっていて中が見れないと回答すると、その鍵は広場横の診療所の人が持っているとのこと。バスは5分あとに出発とのことだが、それはなんとかして、この教会を見たい。
 で、二人でその診療所に急ぐ。中にいた男性に、かぎの件を聞いてみる。彼は医者なのか事務員なのかわからないが鍵は持っていると言い、それを助手の女性に渡す。彼女が私たちの先頭に立って教会に戻る。 
 
中は悲惨だった。外から見てもその建物の状態の悪いことははっきりしていたが、中は完全に廃墟だった。建物の中にいると言うだけの状態だ。
しかし、こんな人里離れたようなところに、この島一番の大きさの教会が建てられた理由は何だったのか?
もちろん今はこの教会の側に町が無いが、200年前は、ここは町の中心にあったのだろう。この教会のお祭りのある日には近くの小島からも人が押し寄せ、広さが1000平米もある、この教会が一杯になってしまったらしい。しかしヘスイッタの人たちの宣教術の素晴らしさはどうだ。何だかこの近辺の島に住む人を全員洗脳してしまっている。多分わずかの時間のうちに。
日本にも、織田信長のころだが、彼らが到着して、戦国武士の一部を改宗させることに成功しているが、ここのようには行かなかった。島原の乱のようにキリシタンは日本では国の中で大きな力とはなりえなかった。
ここでももちろん既存の宗教、社会組織があったのだから、それが根こそぎキリスト教に替わっていったわけで、そのエネルギーには驚かされる。
崩れかけたその教会の中を、女性に連れられて私たちは歩く。屋根が壊れているから雨漏りがある。雨が落ちてくるから床がやられる。補修をしていないから柱が崩れ落ちそうだ。装飾はほとんど剥げ落ちてしまって、何も無い。ただがらんとした廃屋の中にいるようだ。
遺跡に入って、そこから「気」を感じることがあるが、その遺跡を作った人々の熱気のことだが、それが強く残っている所と、希薄の所がある。もちろん、それは科学的な度合いではなく、私自身の感覚だ。それがどうして起こるのか考えてみると、それは遺跡の大小とか、有名度によるものでなく、自分のその遺跡への思いこみ、肩入れ?によるものと言うことが分かった。
この島の教会の場合、アチャオでは、現在の人々の保存にかける熱意とあいまって、建物の中に、建設当時の熱意が閉じ込められている。それが、ここの場合は、もうすべて終り、あと何年もしないうちに天井が落ち、柱が倒れ、壁が崩れるのが見えている。熱意は消えている。そうか、気と言うのは遺跡を作った人々の熱意だけの問題ではないのか?
さっきの診療所のおっさんが怒っていた。「何が世界遺産だ。くだらない宣伝だけしおって。こんな小さな地方役所に責任だけおしつけて補助金も何も出さないで、どうして遺産の保存ができるのだ?馬鹿たれが!」

 外で、バスが警笛を鳴らしている。私たちを呼んでいるのだ。レストランのおばさんが運転手に、まだ二人教会に入っているから、出発を待ってくれと頼んでくれたのだろう。小さい村ならではのこと。
そこで係りの女性に御礼を言って、献金を渡し外に出る。3時間歩く替わりに30分でアチャオに戻った。
そこで、その写真家と別れた。エステバンと言う名前だったが、彼の電話番号を聞いて、このチロヱの文章が活字になるときは、君の写真も載せたいので、連絡をとるよと言うと喜んでいた。

疲れたので、町で喫茶店をさがす。一軒セントロにあった。中に入るとちゃんとエクスプレッソのコーヒーが飲めるとか、すばらしい。ケーキも頼んで、5時のお茶にする。
ペンションに戻ると、身体が熱く感じた。まずい、熱がある。雨の中、濡れて歩いているからだろう。風邪か。しようがないベッドの中に入って、おとなしく本でも読むことにする。旅先で本を読むのは気持ちの良い仕事だ。

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 一時間ほどベッドで本を読んでいたら、少し落ち着いてきた。調子が悪くなったのは、風邪だけではなく疲労かもしれない。でも、そう言いながら、少し休むと、また歩きたくなって、外に出る。丘の方に歩いていたら、大工さんが家を建てていた。小さい家だなと思いながら近づくと、お墓だった。そうか、チリでは日本と違って、金持ちは墓地に小さな、それでいて豪華な家を建てて、それをお墓にするが、ここもその習慣があるわけだ。のこのこ中に入っていく。
 実は、そんな豪華なお墓を見るのではなく、お墓に刻まれている名字を見たかったのだ。つまり目的はチリの本土と同じくスペイン風とかドイツ風の名字ばかりなのか、ここのインディへナの人の名字もあるかなと言うわけだ。
 結論、やっぱり金持ち風のお墓に刻まれている名字は欧州調のそれ、小さなお墓に刻まれているお墓はこの土地の人の名前でした。まれにこっちの人風の名字で大きなお墓があると、にっこりしたりして。この感覚は何と言うのだろう。雨がまた強くなってきたのでペンションに戻ることにする。
 さて私の名字、藤尾もこの先、どうなっていくのだろう?チリで藤尾は今のところ、ただ一軒だから・・・。

 夕方になったので、レストランに入った。まだ雨が降っていたので、ペンションの近くにする。ここでは夏のこの時期、夜十時まで明るいので、八時にレストランに入ると夕食と言うより、夕方の軽食のような気がしてしまう。 
さてテレビの前で四人の男が、釘付けになってみていた。サッカーならわかるが、今はそのシーズンではないし?
 驚いた。彼らは連続テレビドラマの最終回を見ていたのだった。この離島では衛星中継のような放送でなければ映像が不鮮明なので、おっさんたちはわざわざレストランに来て、ビールを飲みながらその番組を見ているのだった。
実に不思議な光景だったが、日本で言えば、徳島の田舎のレストランで、おっさんが集まって、おしんの最終回を見ているとでも言えばよいのだろうか?
 今日もサーモンのステーキを頼んだ。ここにも鮭工場があるらしい。島中でサーモンの養殖をしているみたいだ。ここのサーモンがアメリカや日本に出て行くのだろう。しかし不思議な気がする。
食事の後、ペンションに戻って寝る。ベッドに入った頃、また雨足が激しくなった。屋根に落ちる雨の音が強烈だ。もちろん、雨が漏ってこないのなら、どんなに降っても、その音を気持ちよく聞ける。本を読んでいると時間がたっていった。
ところで、この村でも、あちこちで村人と話をした。えっ、日本人って背が低いんじゃなかった?とか言われたこともあるが、さすがに日本は金持ちの国と言うブランド・イメージはここでも確認できた。私に会ったここの人は、これから、日本人ってすごく痩せているのよって言うのかもしれない。