パタゴニアの旅-1   2020年3月 藤尾明憲

私は今までパタゴニアには数十回行っている。その中心地プンタ・アレナスのことだ。しかし今回は、初めて、自費で行った。 つまり今までは仕事で行っていたので,飛行機代もホテル代もすべて会社の費用だったが、今回は個人のバケーションだったわけだ。    
今回の旅は妻と二人で,しかも彼女は初めてのパタゴニアだから、彼女が楽しめる日程にしなければならない。彼女のための個人ガイドのようだった。
桜を見るため3月末に訪日を考えていたが、新型肺炎問題からそれを延期し、日本より安全だろうと考えこの旅が実現したことになる。もっともその病原菌は世界中を廻り、アメリカ大陸最南端のパタゴニアにも大きな影響を与えていた。
そういう状況で旅は始まった。

当初予定の日程は次のようだった。
1日目 サンティアゴ-プエルト・ナタレス(飛行機)
2日目 アルゼンチンのペリト・モレノ
3日目 チリのトレス・デル・パイネ
4日目 プエルト・ナタレス-プンタ・アレナス(バス)
5日目 ブルネス砦かマグダレナ島(ペンギン島)
6日目 プンタ・アレナス-サンティアゴ(飛行機)
これが大きく変わったのだが、それを少しづつ説明していこう。

一日目

初日は順調だった。3月16日のラタムの朝のプエルト・ナタレス行きの直行便はガラガラで座席は3分の1ほどしか埋まってなかった。乗客はほとんどチリ人だった。この時期、外国人観光客はチリにはもう来ないのだろう。
飛行機の中では本格的なマスクをしていたが息苦しいし気持ち悪いので困った。
飛行場の手前でトレス・デル・パイネの上を飛び、乗客は窓からその景観を楽しんだ。3時間半ほどで空港に着陸。
これが今シーズン最後の飛行だった。と言うのはこの路線は観光客向けで、この後3月の終わりから12月までこの路線のサービスはない。ちょうどその最終日の便を利用したわけだ。もちろんそれを知ってこの便に予約を入れたのだが。             
プンタ・アレナス便を使うとこの町に来るのに往復ともバスを使うから時間の無駄になるわけだ。
私が前回この飛行場に来たのはプンタ・アレナスから小型機で飛んでいる。ガイドの仕事で富裕層グループの付きあいだった。空港からバスでトレス・デル・パイネに向かい,昼食はグレイ湖の近くにあるホテルで。目の前にその山脈がそびえていた。

さて飛行機を降りると小雨が降ってきた。天気予報ではその週は毎日雨だった。
労働者に外人が多いと前回北部のアタカマ砂漠に行ったときに感じたがここでも同じだった。
荷物を受けとる場所に町まで行くバスの切符売り場があった。二人分を購入。約10人が乗り込んでバスは出発。切符を買う時に目的地を伝えてあるからどのルートで行くかは決まっている。
切符売り場の女性がバスの中では運転手の助手だった。運転手も彼女も二人ともベネズエラ人だった。観光地では外国人が多いから彼らのように英語が分かると直ぐに仕事が見つかるのだろう。ホテルの受付にもアルゼンチン人が一人いた。ほとんどの人はチリに来て2,3年だった。
乗り合いバスで街に向かった。アタカマ砂漠の時と同じく私たちは最後になると想像したが,なんと私たちのホテルが一番空港に近く、最初のストップだった。ここのホテルはウェスカル ロッジだった。そのホテルはネットで見つけ予約を入れた。
先ずホテルに入って休憩する。
海に面した部屋で眺めは抜群だった。

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ホテルの部屋から見た景色
少し休んでから歩いて街に行くことにした。約2キロの距離だ。
湾に面している道路で交通量は少ないので気持ち良く歩ける。遠くに雪をかぶった山が見えた。ポツリと雨粒が落ちてきたが,
雨にはならなかった。もちろん雨具の用意はしていた。
水際に多くの水鳥が餌を探していた。船が2艘見える。漁船ではなく貨物船だろう。この町のシンボルの手指先像が建っていたので彼女の記念写真を撮った。
中心地区に行くには道を曲げる必要があったが、よくわからないので海岸に沿って町の外れの方まで歩いた。喫茶店やホステルがあった。
町の中心部に入りレストランを見つけたので、そこで鶏肉定食の昼食をとった。おいしい料理だった。そこにも外国人が働いていた。レストランの数が多いのは直ぐに感じた。それほど観光客が多いとは見えなかったが。
その近くに先住民博物館を見つけ中に入った。今まで見てきた写真とそれほど変わらなかった。彼らがほとんど全員、消えていったことについて係員に質問したが、先住民はチリ人に殺されたとは言わなかった。
f:id:peter-fujio:20200414161257j:plainこの町を歩いていると先住民の写真や絵をあちこちで見た。この町のシンボルなのだろう。その人たちが消えていったのは,今の住民の祖父母の時代の殺戮だが、誰も覚えていない。
歩いているとスーパーマーケットがあった。私の家の近くにあるのと同じチェーン店だった。サンティアゴと似た暮しを送っているわけだ。町の雰囲気は落ち着いていて,ざわざわしていない。犯罪はほとんどないようだ。この州はチリで最も貧富の差が少ないと言うのが素晴らしい。
戻りはタクシーでホテルに。
夕方,ホテルのサウナに入る。
最近アルゼンチンへの旅をしていないので,久しぶりにここから近いペリト・モレノ氷河の見学をしたかったのだが
先週の国境閉鎖で不可能になってしまい,パスポートは持って来たが,アルゼンチンへの旅は不可能になった。
そこで2日目のツァーはトレス・デル・パイネにする。ホテルでツァーの予約を入れた。
夕食はホテルでチリ料理のトウモロコシ料理を食べたがいま一つだった。

二日目

ツアーは7時か7時半に始まると言われたで早めに朝食を食べる。
ところがホテルの人にツアーは昨日で終わり、今日はもう無いと言われた。突然に国立公園を閉めたわけだ。
つまりこの町の観光ツアーはしばらくない事になるのだろう。
仕方がないのでこの町の滞在を一日短くし、明日プンタ・アレナスに行くことにする。既に支払ったホテル代とツアー料金を払い戻してもらうことにした。
この町はこのマガジャネス州(第12州)の最後の希望郡の中心地.。州都はプンタ・アレナスになる。この郡に最後の希望と言う奇怪な名が付いたのは植民地時代に事故があったからだ。この州は観光、漁業そして鉱業でなりたっている。
ホテルを出て町に向かう。

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町の入口から見える風景
もうこの町の様子は分かっているからスイスイ歩ける。昨日と同じく雨にはならなかった。
人口は3万人ほどだが、高層ビルが無いので町の両端の距離は遠い。
昼食に入ったレストランが変わっていた。
客には外人が多かった。ウエーターも外国人が多い。店は繁盛していた。
どうして外人客が多いのかはわからなかった。他にもレストランは多いのに。
店内の装飾は全て先住民に関する絵と写真だった。人気の秘密はこれかな?
10人位の中国人グループが入って来た。緊張感が溢れる。客と従業員にも。
彼らは別室に入った。
もちろん私たちは食事をしているので別室の彼らが何をしているのか分からない。しかし従業員もドキドキしていたのは感じた。
金を払って外に出る。
ホテルに戻って一休み。
午後の目標はプンタ・アレナス行きバスの乗車券を手に入れることだ。
ホテルからターミナルまで約4キロ。町の中央部で,そこへの道を聞くと,その男性は私について来なさいと言う。しばらく話をしながら歩く。地元の人と話ができればその町を観光客より深く見られるのは当然のこと。することがあれば確かにここは住みやすい町かもしれない。
彼の家の前で別れ,言われた方向に歩く。やっと到着。
バスターミナに行くと新型肺炎対策を赤十字の人が説明している。予防手段の中にマスクがあった。その時、私たちは嫁さんが作った手製のマスクをしていた。それを説明すると興味を示し写真を撮らせて欲しいと頼まれた。役に立つだろうか。
翌日10時発のバスの座席を確保した。それで同じ建物の二階にある喫茶店に入った。二人ともコーヒーを頼んだが、私はミルクコーヒー嫁さんはカプチーノ、それが素晴らしい味で喜んでしまった。勘定の時に、そのコーヒーを作った女性にお礼を言ってしまった。
その次に保健所を探し始める。ターミナルの近くに在るはずだった。現地の人に聞いてたどり着く。病気でもないのに旅に出てなぜ保健所と思うだろうが、理由はインフルエンザの予防接種のためだった。身分証明書さえあればチリ中どこでもしてもらえる。
残念ながら,その日に到着したワクチンは全部使用したので明日来てくださいと言われた。その後,保健所の中をあちこち歩いて質問
した。

外に出て歩いていると突然,藤尾さんと呼びかけられた。えっ、驚いて見ると駐車している車の中に日本人家族がいた。学校の知り合いだった。彼らは昨日トレス・デル・パイネを歩いている。残念,一日違いで私たちは悔しい思いをしたわけだ。きっと彼らにとっては素晴らし思い出の旅になったことだろう.
しかし、こんな離れた所で名前を呼ばれるとは。
昨日、遠くから見た円筒の屋根を持つ建物を探して歩いた。それはフルティジャールのシンボルの建物と良く似ているからだ。ちゃんと見つけて写真を撮った。フルティジャールと言うのは近い将来に私たちが移住を考えている場所だ。
夕食はホテルにするつもりだったが昨晩のことがあるので町で食べることにする。イタリア料理にした。おいしく食べられた
そしてタクシーでホテルに戻る。今日は良く歩いた。16000歩だった。
普通の観光客の一日とは違うが,パタゴニアの町に親しむと言う観点から見れば有意義な日だった。と言うより観光地に行けなくなったので南部移住の下調べをしたような気がする。