チリの風  特別編  チロヱの旅(2)

03年1月19日(日)
まずこの町を見てみようと、朝食をとって、シャワーを浴びてから八時にホテルを出た。外に出ると港のところで4人の若者が話をしていたので近づく。
「何してんの?こんなに朝早く」 日曜日の朝八時だから。
「仕事はあるの?」「赤潮の影響はまだあるの?」いろいろ聞いていく。
彼らは漁師だった。船に乗って釣りをしている。陸にある鮭の工場で働く方が仕事としては楽だし、給料もよいのだが、少なくとも高卒の資格が無いと働けない。
昨年、政府の機関が、この辺りは赤潮汚染に影響されていると魚貝類の捕獲禁止(もちろんその販売も禁止)をしたので、仕事が激減、生活に苦しむことになったらしい。(それはテレビのニュースで何度も報道された)
しかし、彼らは憤って言う。嘘や! あいつらの言っていたことは。わしらは毎日、ここでとれた魚貝類を食べとった。生で食べたこともある。しかし病気にはならなかった。なっ、生きてるやろ。赤潮に汚染された魚貝類を食べたら病気になる、死ぬと言うのは嘘やで。
もちろん、それがこの地方の主な産業なのだから、魚貝類の捕獲販売が禁止されるということは町全体の死活問題だったに違いない。
失業問題は、あるね、今でも。でも、仕事がうまくいかないのはここでも大都会でも同じよ。だろう?
しかし日曜日の朝八時に港の前で、話していた四人は、その日の仕事を待っていたのではなく昨夜から飲みつづけていたのだった。まだ飲み足りないんだけど、カンパしてよ。最後にこう言われて、つきあいとしてポケットの小銭を全部わたす。きっと、ビールもう一本だろう。
さて彼らと別れて海沿いの道を歩き始める。しかし貧民街の家と言った雰囲気ではない。ちゃんとトタンの屋根が付いていて、雨露はしのげそうだし、風が吹けば今にも崩れそうなと言った家は一軒もない。
しばらくして方向を変えて町の方に歩いていく。雑貨品の店、食料品の店、みやげ物やパン屋など小さな店が軒をつらね、この町が生き生きとしていることを示している。誰かが商品を買っているということだ。
続けて町外れの方に歩き出す。川が流れていた。その横に鮭の養殖工場があった。陸に大きな丸いプールを置いて、その中でサーモンの養殖を行っている。日曜日の朝でも何人かの人が働いていた。
中には入れなかったが、工場の近くまで行く。昔このサーモンの養殖に使う海用のフィッシュ・ケージを売ろうとしたことがあった。10数年前のことだ。その頃はチリの養殖産業が始まったばかりで、今日のような繁栄が来るのを誰も予測できなかった時代だ。なにしろ、現在は老舗のノールウエイを抜いて、チリは世界一のサーモンの輸出国になったのだから。
私の売ろうとしたフィッシュ・ゲージは荒海でも安定して鮭の稚魚から成魚まで育てられると言ううたい文句だったが、タイヤのようにはいかず、商売は失敗ばかりだったのを思い出す。ところで私の長男武蔵が大学で、海洋工学部で鮭の養殖を学んでいるので、彼はこんな工場で働くことになるかもしれない。

町を離れ、少し山に登ってみることにする。私は山好きだが、レベルが低く、たんに丘があれば登ってみると言うだけだ。いや、スポーツではなくただ高いところに登ってよい景色を見たいというのかもしれない。なにしろ、煙と何とかは高い所に登るというから。
登っていくと確かに木がない。雑木ばかり。草やしだの類が地面を覆っている。森林のない山は魅力に乏しい。チラッと空を見たら、黒い雲が風に乗ってこっちに近づいているのが見えた。やばい、後少しで大雨だ。あわてて、道を下り始める。平地に出て歩き始めた頃、雨が降り出した。風が無かったので傘を差す。傘さえあればなんぼ降ってもええで、と言う感じ。
町の雰囲気は第12州のプンタ・アレナスに良く似ていた。多分ここから出稼ぎに行った人が、その雰囲気をもって帰ってきたのだろう。プンタ・アレナスでチロヱの人がたくさん働いていると言う話を幾度となく聞いたから。
(タイヤの関連で、一時期、年に何回もプンタ・アレナスに出張していた)
 ここはチリの最南部に向かう船の出発港でもある。たくさんの人がここから夢を胸一杯にしてでかけていったのだろう。

 町に戻る頃、雨が小ぶりになった。ところで、ここは野犬が多い。多分ここの人は犬にえさをやるのだろう。中型、大型の犬が多かった。食料があれば犬はいくらでも増殖する。
 さっきの四人組のほかに、街角に何人もの酔っ払いを見かけた。きっとこの町にはアルコール問題があるのだろう。チリは公衆の場所で、つまり道端で、アルコールを飲むのは認められていない。警察の世話になることになる。
 教会を見に行こうと探し始める。なかなか見つからなかったが、何人もの人に聞いてやっと探し当てる。普通の教会で興味をそそられるものではなかった。
ホテルに戻って荷物をとる。
 この辺りには、もともとはチョノスという部族とベリチェと言う部族が住んでいたらしい。チョノスは海に出て魚をとって生計を立て、ベリチェ(これは本土のマプチェ族の親戚らしい)は農業と海岸での貝や海草の採取で生活を立てていたという。そうか、日本では海ひこ、山ひこの話だな。分かる。昨日バスで会った、ここからまだ船で六時間の小島に住んでいるおばさんはチョノスの人だったわけか。
 話は基本的なことに戻るが、この本島は南北250キロ、東西50キロの大きさで、その他に小島が約40、人口は全部で15万人と言われている。チロヱの語源はかもめのいる島とのこと。

 さてバスターミナルで、次のバスに乗ることにする。10時10分発のバス。集まってきていたのはほとんど外人だった。イギリス人、スペイン人、イスラエル人、アメリカ人、それに日本人の私。
 イスラエルの若者はここまで自転車できていた。今日は自転車をバスに乗せてゆっくり北上なのだろう。彼らの国の名前を書くだけで、世界中の人間が世界中を旅行していると言う気がする。
私はイギリス人と話を始めた、英語とスペイン語を混ぜて。彼は旅行者だが、ここに土地を買って住み着くことを考えているらしい。しばらく住んでみて上手くいきそうなら、土地を買うといっている。四十を越えて人生の設計をしなおしているという感じだった。
 彼らに混じって話をしていると、自分がバックパッカ―の時代に戻ったような錯覚をしてしまう。ところで、私はここでも、そしてこの先も何度か、ペルーから来ている日系人に間違われた。日系人と言うとペルーと言うイメージが世界的に確立してきているのだろう。フジモリさんのおかげ?
 雨は降ったりやんだりしている。

 バスは次の目的地、カストロについた。ここはこの島、チロヱ郡の首都だ。
バスを降りるとすぐにペンションの案内人につかまった。一泊朝食付きで5千ペソ。リーゾナブルな値段だ。異存無い。そこに決める。場所は近い、ここから4ブロックと言うのに車に乗せられた。数分でそこにつく。
 運転手、彼がそのペンションのオーナーだったが、彼の話を聞いて、明日はアチャオという町に行くことに決めた。そこにこの島で一番古い教会があるからだ。その教会を建てたのはあのジェスイット派の人たちだ。
 突然、ジェスイット派と言われても誰も理解できないだろうが、私と彼らとの付き合いは古い。昔、パラグアイに旅行したとき、彼らの立てた教会遺跡を見て感激し、彼らの歴史を調べて、もっと感激し(私は感激しやすい性格をしているのだが)彼らのやることなら間違いない?その教会を見に行くのは、このチロヱの旅でもっとも意義あることになるだろうと確信したのだ。私のチロヱの旅もだんだん充実してくるのを感じる。
 ペンションの近くに、チロヱ市場があった。後で見に来よう。ここはこの島の住民しか店を出すのを許されていない公営市場だそうだ。

 荷物を置いて、ちょっと休憩したあと、町に出る。最初はその公営市場だ。
花売り場に活気があった。すばらしい。ここの人は花を買って飾る趣味があるのだろう。オランダのアムステルダムで、通勤帰りの人が気楽に花を買っているのを見て驚いたが、ここの人もなかなかのものだ。そういう私は自分のために花なんか買ったことは無いのだが。
なんでもここの市場はこの地方で見られる木でつくられた建物だが、それらの木は絶滅の危機として現在は伐採が禁止されている由。動物でも植物でも絶滅の危機の元凶は人間だ。
市場でインカ茶というのを売っていた。ちゃんとクスコ、ペルーと書いてある。きたないビニールの袋に入って陳列されてあったが、コカ茶のことだろう。サンティアゴでは飲む人もいないので売っていないが、ここでは物好きな人間がいるのだろう。
野菜、果物。小間物などのほか、古着も売っていた。観光客はここに来て古着は買わないだろう。ここが地元の人ためにあるというのがわかる。しかし民芸品も一部で売っていたが。
じゃがいもや玉ねぎの値段はサンティアゴよりやや高めと言う感じだった。
おなかがすいたので市場の二階にあるレストランに入る。私の次に入ってきた親子が食事の来るのを待っている間、指相撲を始めた。懐かしいような不思議な気がした。
私はサーモンを頼んだら、ステーキになって出てきた。おいしかった。野菜サラダを付けて飲み物を入れて2200ペソだった。

ケジョンは多分千人単位の町だが、ここは何万人も住んでいる都会の気がした。この町に入るところに高級住宅街があって、多分、本土の金持ちが別荘として持っているのだろう、瀟洒な建物が並んでいた。
さて市場を出て、ペンションの親父に言われたとおり、見晴台に向かう。眺めのよいところで休憩するのはどこでも、いつでも良いアイデアだ。素晴らしい光景だった。遠くに海が見え、町の遠景としてゴルフ場のような緑地が広がっている。すぐ目の下にサッカー場があった。今、ここで3部リーグのチリ大会が開かれているらしい。じゃ後で見に行ってみようか。
展望台を降りて町に下っていく。サッカー場の前を通ったら次の試合は午後5時からとわかった。それまで町をぶらつくことにする。
歩いていて、金髪の人間が多いことに気がついた。もちろん染めている人が大半だろうが、ケジョンでは見なかったから、ここの人はそういうおしゃれに気を使う余裕があるのだろう。ところで、日本では毛を染めるのが普通で、もともとの黒い髪の女性はもはや少数と聞いたが、古い時代の私としては信じられない。いったい日本はどうなったのか。
新聞を買おうとキオスクにいったら、まだ着いていませんと言われた。ここではサンティアゴから飛行機でプエルト・モンに持ってきて、そのあと、陸路昨日の私のルートで運ばれるわけだ。つまりここでは朝刊が夕刊になるわけだ。
しかし昨日のケジョンの安ホテルでもCNNのニュースが見られたが、世界が狭くなっていることに感心する。

どう言うわけか、ツァーに入ることになってしまった。観光会社に入ってパンフレットでももらおうとしたら、係りの女性と話が弾んで・・、藤尾さんは女性に弱いと言われそうだが、彼女のすすめるツァーに入ることになった次第。
レムイと言う島を巡るツァーで、教会も見れるし、素晴らしいし自然、昼食は焼肉アサードと言うのだから、なかなかでしょ。13000ペソだった。食事がついて丸一日のコースが2千円以下なのだから安い。
で、彼女との話だが、20歳前後の彼女は、「私はここの出身のインディへナと思っているが、実は違うかもしれない。と言うのは、おじいちゃんが、どこか知らないよその国から来て、ここに住み着き、おばあちゃんと結婚したのが、私の家族の始まりと聞いているから」
ほんとうにおじいちゃんはどこからきたのか知らないらしい。彼女のおじいちゃんが出身地を秘密にしていたんだな。逃げてきた人なのだろう。フーム。
町の中心に大聖堂(カテドラル)があった。世界の教会を見てきた私だが、さてこの教会はどうだろう。興味をもって近づく。ドイツのウルムの教会とか、とにかく大きいものはその規模で見る人を威圧する。それは尊厳の念を植え付けるかもしれないが、私はそれでは驚かない。もちろんここのそれは大きさではチリ各地の大聖堂と変わりない。
静かに一礼して中に入る。おっ、すごい。一瞬の内に、私は心を奪われてしまった。クスコの大聖堂は、その金銀を豊富に使った豪華さと、建物の基礎になるインカの石組みで、人々を魅了する。しかし、ここの教会は質素に見えるが手の込んだ木造で、派手さはないのに、どこもが輝いている、そう言った柔らかさで訪れる人の心を包んでくれる。そう言う意味で、ここの教会はチリで一番かもしれない。と、少なくとも私は感じた。
 イスに座って、流れてくるミサの曲を聞いていると確かに心が安らいでくる。
いつもカトリックを批判する私だが、そうして教会にいることを喜ぶのは、実際は隠れキリシタンなのかもしれない。
そうだろう、どう考えても私よりすぐれた人々が、西欧の哲学者とかだが、彼らが無批判にカトリックの信者になるわけがない。すべての条件を考慮して、自分の疑惑をすべて明らかにした上で、彼らはカトリック信者になっていたのだから、私の批判はまだ甘いのだろう。
私にすれば、軍隊のような神父の階級制度なんか、どう考えてもおかしいし、教会の中に十字架に掛かったキリストの像を掲げるのは、偶像を禁じるキリストの教えに反していると思うのだが・・・。おまけに彼らがアメリカ大陸で神の名のもとにどれだけの人間を殺し、土着の文明を破壊してきたことだろう。

さてサッカーの試合までまだ時間があったので、喫茶店でコーヒーを飲むことにする。そう遠くない所に、近代的な大きなスーパーマーケットがあって一階のコーナーで、コーヒーが飲めるようになっていた。
そこでカプチーノを飲んでいると一人の若者が横に座った。なんだ、彼はさっき一緒にバスに乗ってきたアメリカ人じゃないか。早速話し始める。イギリス人とは英語で話したくないが(良く分からないから)アメリカ人なら英語でもいける。途中で、会話にスペイン語が混ざり始めたのは、彼は今、バルパライソのカトリカ大学で勉強しているといったからだ。
父親が弁護士、母親は病院で働くプロフェッショナルとというから裕福な家庭の子どもなのだろう。アイダホ出身と聞いて笑ってしまう。私はこれまでアメリカ合衆国の40以上の州を訪問しているがアイダホはまだだ。私のステレオタイプの頭にはアイダホと言えば、ジャガイモしか入っていない。彼も「そう、いもなんですよ、今だに」と言って笑った。そのいも州からチリに勉強に来ると言うのも実に変わっている。将来何をしたいのと聞くと、ソニーミュージックとかの音楽関連の業界で働きたい。ラテンアメリカを担当して、と言う。できるかな?
私も彼の年齢で、旅に出たのだった。そうだ、あのころは怖いものが無かった。どこでも寝れるし、なんでも食べられた。いまならもう冒険、探検の旅に出る気力も体力もないが・・・、そう、あの頃は素晴らしかった。目の前の若い彼を見ながらつい追想にふけってしまう。彼はここからアルゼンチンに入り、バリローチェにいくらしい。
彼のコーヒー代も私が払って別れた。

疲れたので、サッカーを見る前にちょっとペンションに戻ることにする。し
かし良く歩く。町からペンションまで歩いて半時間だが、それくらいは全く平気だ。サンチィアゴでも良く歩くが、旅に出るともっと歩く気がする。

 さぁ、サッカーだ。はりきってペンションを出た。さっき通った展望台を抜けて、サッカー場へ急ぐ。丁度、選手がウォーミングアップをしているころ球技場についた。
 この試合はチリ国内3部リーグの決勝トーナメントで、今日対戦するのはAグループのコキンボとアントファガスタ。両方とも都市の名前(州の名前にもありますがこの場合は都市名)。鉱山の仕事でアントファガスタには世話になったので?そっちを応援することにする。どっちも知らないチームだけど、ただぼやっと見るよりどっちかの応援をした方が見ていて盛り上がるものだ。それから、選手紹介の時たまたま私の友だちと同じ名前のクリスチャン選手(背番号19)を覚え、試合が始まると彼の名前を叫ぶことにした。彼もびっくりしただろう。いきなりスタンドからがんがん自分の名前が呼ばれるのだから。
 昔、私はこの3部リーグの試合を毎週のように見に行ったことがあった。それは武蔵が、ラス・コンデスと言う3部リーグのクラブ・チームのジュニアーでプレーしていたからだ。チリでは2部リーグまでがプロで、3部と4部はアマチャーになっている。武蔵のいたジュニアーチームはそのころ、なかなかの成績をあげ、ミロ・カップと言う南米大会にも参加した。アルゼンチンやブラジルの子どもたちと自分の子どもの参加するチームが試合をするのを見るのは興奮するものだった。
 それはさておき、この日、アントファガスタは技術的には互角だったが、体力に劣り、常に一歩前を行かれる感じで、2対0で敗戦した。

 ちょっとがっかりした感じで競技場を出る。町に戻って歩いていると、さっきの観光事務所の前に出たので中に入っていく。おねえさんが、申し訳無さそうな顔をして言う。「契約いただいたツァーですけど、最小催行人員に達しませんでしたので、明日は中止となりました。その替わりにこっちのツァーはどうですか?」
「何・・・・!そんな」
私はせっかくの妙案と思ったツァーが流れてがっかりし、替わりの案は受けなかった。そのツァーは近くの小島をまわり、個人では行けないと見えるところまで入るので申し込んだのに。払ったお金を戻してもらって外に出る。
普通の旅行者はツァーに入って団体で旅をする、少しなれてくるとレンタカーをしてまわる。私はバックパッカ-なので、個人で自分の足を頼りに歩く、いつものことだ。
 じゃ、しようがない、違う島に行こう。そのとき私の頭には例のジェスイット派の建てた教会で一番古いのと、一番大きいのがあるキンチェロ島に行くことがひらめいていた。
 近くの安いレストランで、夕食をすませ、ペンションに戻った。

さぁ、ゆっくり寝ようかと思っていたら、台所の方から、こっちにおいでよと声がかかり、行ってみるとたくさんの泊り客が夕食を食べていた。サンドイッチをそれぞれが作って食べているのだが、私もすすめられる。今、食べてきたばかりだからと断ると、じゃコーヒーでもと。彼らは私よりもっと節約しているわけだ。
 私が日本人と聞くと、さすが日本を知らない人はいないから、いろんな質問がとんでくる。私はもうすっかりチリ人化していると、言っているのにチリと日本の比較をしてどちらが人間らしい暮らしをしているか聞いてくる。しかたない日本代表で質問に答える。日本が金持ちの国と言うことは、ここでも良く浸透していた。
 ここで私と話をした彼らは、全員が本土から来ているのだが、後で、「旅先で日本人にあって話をしたことがあるが、特に私たち(チリ人)と替わったことはなかったよ」と言うのだろう。チリ人のほうが日本人より、会話が好きと言う気はするが、私にとってもうチリ人とか日本人の差別は感じなくなっている。

 ここのペンションのオーナーが、ギターが弾けるらしく、また泊まっている客に歌の上手いのがいると言うので、今夜は演奏会をしようと盛り上がってきた。あなたもできるんなら、どうぞとギターが回される。最初は調弦を頼まれたが、絶対音感のない私は、適当に音をあわせて、曲を弾き始めた。
 私の場合はまずビートルズだが、ここの人はスペイン語でやってほしいと言う雰囲気なので、切り替える。ところで、ここは全員カップルで、私だけ一人。

そのとき、外から泊り客が戻ってきたが、何と私が見ていた試合の相手側、コキンボ・チームの関係者だった。そこで、私もその試合を見ていたというと、うちの応援をしてくれたんでしょうねと聞かれ、正直にそれが、相手側を・・。小声で言う私に、うちの圧勝だったでしょ?と聞かれ、そうですね、それは認めますと答えると、分かればいいんだけど言われる。
 その次には、他のサッカーの参加チーム、コピアポの関係者も来て大騒ぎ。
そういうわけで、このペンションは満員なのだった。

 少し落ち着いてから、私の次に二人が演奏し始めたが、なかなかのもので、ここの民謡、チロヱのクエッカに、踊り始めるカップルも出て、最高潮。
 このへんは私もくやしいが、とても彼らに追いつけない。まぁ日本で言えば、荒城の月とか、浜辺の歌とか学校でならった歌や五木の子守唄をみんなで歌い始めると言うことだろう。話をしていて言葉がわからないということはほとんど無いのだが、この歌のことや文化、教養の分野ではチリの学校教育を受けていない私は、つねにハンディキャップがある。
 それでも、私もチリのノーベル賞詩人ネルーダの詩にメロディーをつけたオリジナル曲とか、ペルーのフォルク・ローレを歌い盛り上げた。
 十二時になったとき、シンデレラじゃないけど、次の日の行程があるから、私は彼らとわかれて部屋に戻った。
 残った人たちは、もっと遅くまでやっていたのだろうが、きっと彼らは翌朝の出発が遅いのでかまわないのだろう。