チリの風  特別編  チロヱの旅(5)

5日目(1月22日)
最後の日、目がさめたら、まだ太陽が昇りきっていない空に、虹が掛かっているのが見えた。目の前の湾を大きくまたぐようにして。手の届きそうなくらい近い海岸から大きなアーチが向こう側へ。もちろんずっとそれを見ていた。 
確かに自然の芸術は人間の芸術家ではとても及ばないやに思える。この雄大さと、構図、配色の美を見せ付けられると人間は何をやっても自然を越えられないという気さえしてしまう。
まぁもちろんそれほど卑下することも無いわけで、たんたんと自分たちの持つ力を発揮するより無い。人間の技も時として、自然界に迫ることもある。(?)
ところが、虹の後ろから黒雲が湧き上がってくるのを見て、そうか今日も今までと同じく雨だなとわかった。それであちこち歩き回る気力を失い、ベッドの中でしばらく雲の動きを見ることにした。のんびり。
 
 朝食をとってもまだ時間があった。今日はサンティアゴに戻るだけで、他に何も予定は無い。早くプエルト・モンに戻っても飛行機の出るのは夕方だ。それならここでゆっくり過ごした方が良い。
 で、もう一度、この町を歩くことにする。セントロ(中心街)はもう何度も歩いたので、全く違う方向、住宅街の方へ歩き出す。もちろん普通の家が立ち並んでいるだけで何の特徴もない。その何も無い所を、普通のおっさん、おばちゃん、学生、子どもが歩いている。朝早いので当然だ。目がさめたのが六時過ぎだから、まだ七時半。通勤通学の人たちと一緒に目的も無く道を歩いた。坂を登ったり降りたり。
目的地の無いこんな歩きは、気持ちをゆっくりさせる。地元の風を味わうには最高の散歩だ。でも雨が強く降ってきたのでホテルに戻る。

 さてこの町も十分歩いたから、そろそろ本土に戻ることにする。バスは島を離れ、またフェリーに乗る。島から大陸に戻るわけだ。最近の新聞報道では今年中にこの橋の建設のテンダー結果が発表され、来年には工事が始まるらしい。 
 今ならフェリーを使うので、一時間かかって島と本土が結ばれているが、その橋ができると四分で向こう側に渡れるらしい。
 フェリーの上で冷たい風に吹かれていると、ピーターって名前を呼ばれた。ここでは誰も知っている人なんかいないから、他人のことだろうと思っていると女性が一人私の前に来て笑っている。私は思い出さなかったが、彼女は「ねぇ、アチャオのペンションで一緒になったサッカーの応援団よ」って言った。あっそうだった。彼女の連れあいの人も来て、しばらくサッカーの話。
 私はこの日の便でサンティアゴに戻るので、夕方には自分のアパートにつくが、彼女たちは一晩かかってサンティアゴに戻り、そこからまたバスを乗り継いでその翌日、コピアポにつくのだそうだ。チリは確かに細長い国だからバスで旅をするのはつらい。

 それにしても、話は変わるが、今回の旅では、女性と知り合う機会が全く無かった。今まで一人旅をしているとどこかで誰かとめぐり合って、何かが芽生えるのだが、今回はまったくそんな様子が無かった。このチロヱの旅はレポートで、小説ではないから、無かったことをあったように書くことは出来ない。 
これはやっぱり私が年を取ってきたと言うことだろうか?

プエルト・モントに近づくと家の窓には鉄格子が入っていた。わずか一時間離れただけのチロヱ島では一階の部屋でも窓に格子は入っていなかった。必要がなかったからだ。その違いは大きい。
昼食の時間だったので、なじみのレストランに入って定食を頼んだ。仕事でこの町に来たとき、利用する店だ。知っている店なら安心して注文できる。
 そのあと、町の中心街で、バンドが街頭演奏をするのを聞いていた。時間がたって、飛行機の時間に近づいてきた。
 バスに乗って飛行場に戻って来た。予約した便の出発まではまだ大分時間がある。カウンターで、それよりもう一便、早いのが無いか聞いてみた。ありますよって回答あり。それも今すぐ出るとか。じゃそれに変更してくださいと頼むとこの切符は、変更できません。安い切符だから。
 粘って見ると、その女性はそっと私に変更した搭乗券を渡してくれた。
その秘密は・・・もちろん、私が交渉上手とか、女性を口説くのが上手いとか言うのではなく(そうだと良いのだが)、私がランチリ航空のマイルエージをたくさん持っている最高級顧客だからだ。
何や、そうだと思ったわと言う声が聞こえそうだが、何か問題が起こったとき、このときの私のように、その航空会社の会員証を見せると言うのは正しい対処の仕方。覚えておかれると役に立ちますよ。

 すぐにカウンターから搭乗口に向かう。チェックポイントの前にあったごみ入れに、長い間、使ってきた半分壊れた傘を入れた。さようなら。
 飛行機は夕方のサンティアゴに無事着いた。


 ここでこの旅日記とは関係ないが、余談として・・・
 アンクッの博物館館員が三万年前の遺跡の話をしたと書いたが、家に帰って調べてみると、次ぎのような記事が見つかった。「ベーリング海が凍結している頃、アジアから北米に人が渡ったのは一万五千から一万三千年ほど前のことだが、不思議なことに、ユーコン地方からは古い時代の人間の生活の跡は出てこない。北米で古いのは、ニューメキシコのクロビス遺跡(一万二千年)とかペンシルバ二アのミ―ドウクロフト(一万九千年)だが、南米ではぺドラ・フラダ(ブラジル)が三万二千年、チリのモンテ・ベルデが三万二千年となっており、ベーリング海峡説では説明できない」となっている。
 この記事は南米に来た人間のルートを南太平洋経由と示唆しているのかもしれないが・・・。

 つい先ごろ、三月の新聞の日曜版から連載開始されたチリの歴史(オズワルド・シルバ著)ではベーリング海峡を渡ってアメリカ渡来がされたのを四万年前、南太平洋を渡ってポリネシア、オーストラリア人が来たのは五千年前としている。(この説も非常に珍しい説だ)
ところでそのシルバの本ではなぜかモンテ・ベルデは紹介されていないが、普通はチリで最も古いのはそのモンテ・ベルデ遺跡となっており、その時期は、現在のところ一万二千年と推定されている。従い上記の三万年前がどこから来たのかは不明。アンクッの館員もモンテ・ベルデは一万二千年前で三万年前のものとは言わなかった。しかし、はっきりしているのは、まだまだ私たちは過去の事実を把握しきれていないということだ。

それからもっとこの旅行記に関係ないが、3月10日のテルセラ紙にクスコとサクサイワマンの城を結ぶ2キロの地下通路がスペイン人考古学者によって発見されたと言う記事が掲載された。
このトンネルについては、弊書「行きたい!マチュピチュ」49ページに書かれてあるが、関係者は誰でも知っている話。現にこの私もそのトンネルの一部に挑戦しているのだから。
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