チリの風  特別編  チロヱの旅(4)

4日目(1月21日)
 昨夜十一時ころに寝たので、今朝は六時に目がさめた。雨もあがっていて、鶏の鳴く声が遠くに聞こえた。
すぐに飛び起きて、六時半に朝食。七時にはバス・ターミナルについていた。ペンションの娘さんが、今年大学に入り、今日学科の登録にプエルト・モンに行くとかで、お母さんと一緒に私の横にいた。
 最初、ここから直接北のアンクッに向かうバスは無いと聞いたので、元のカストロに一度戻ってそれから北行きのバスを拾うことにしていたが、彼女たちに聞くと朝一番にまっすぐ北へ行くのがあるそう。ラッキー、それに乗ることにする。時間と費用の節約。
知らないところを旅しているとこう言う例がたくさんある。幹線(都会)の情報はあるが、支線(田舎)の情報はあやふやで、誰も良く知らない。
 
 バスは二時間で、目的地アンクッに着いた。普通、バス・ターミナルは下町にあるものだが、ここはバス・ターミナルを出ても、それらしい様子が無い。
 しようがない、どっちの方向に歩こうか迷ったが、町と思われる方向に歩き始める。荷物は10キロ超なので、歩くのに支障をきたすほどの重さではない。
とは言え、荷物を置いてから、町へ歩く方が良いのに決まっているから、ペンションを探しながら歩く。
 一軒のペンションを見つけ、ベルをならす。中から出てきたおばさんは私をじろっと眺めてから、どこから来たのか聞く。サンティアゴと答えたら、一瞬間をおいてから、満員だねと断られる。そう言うこともある。ここではさすがの日本ブランドも効を奏さなかった。もっともその時の私は長髪の薄汚れたアジア人のイメージだったのだろうが。よし、この町で散髪屋に行こう。
 さてもう一軒に入ると、十二時すぎなら空くのだけれど、と言われる。まだ三時間もある、待ちきれないと外へ出る。ロッジ風の感じの良いペンションがあったが、隣がパブだったので、遠慮する。夜中にうるさく音楽を流されては良く眠れない。この辺りのペンションは四千―六千ペソだった。
 よし、今日は最後だ。思い切ってホテルに泊まったろ。既に町に入っていた。道行く人にこの町で一番良いホテルはどこですかと聞くと、燃えちゃったねだって。そうかカストロのペンションで、みんなで歌って騒いだ夜、アンクッにあるホテルの火事のニュースをテレビで見たが、このことだったのか。
他にはと聞いて海辺に近いそのホテルに着く。一泊したいのですがと言うと、若い受付嬢は、あっさりと今日は満室ですって。えっ?ほんまやろな?私はちゃんとホテル代持っているで。しようがない、ホテルを出る前に念のためと、聞くと一泊25000ペソだった。それくらいなら、思い切って払う。  
そのホテルで、この近くに他のホテルは無いでしょうかと聞く。教えてもらったそのホテルに向かう。もう大分歩いているのでくたびれてきた。そろそろホテル探しも終りにしたい。
 そのホテルは海辺に面して立っていた。ええやん。海辺に面した部屋はありませんかときいてみる。ぴったりあった。3階で海辺に面した部屋が空いていた。ついている。旅の最後の夜は、粘ったおかげで、希望の条件のところにしっかり決まったわけだ。部屋代は12000ペソだったから今までの三倍くらい高いが五倍くらいの値打ちがありそう。これを私の仕事の場合はコスト・パフォーマンスが高いと言う。
ちょっとした出費だったが、気持ちの良いところに入れた嬉しさは隠せない。まずシャワーを浴びて、髪の毛を洗う。安いペンションではこうはいかない。
 しばらくベッドに入って、ここまで歩いてきた疲れをとることにする。本を読みながら、ちらっと外を見る。窓一杯に海が広がり、見ていて飽きることが無い。幸せ。やっぱりそうやな、停年退職したら、海辺か湖のそばの別荘を買って住むことにしよう。
 今朝、アチャオのペンションで主人のおっさんと話していて、私が将来はチリの南に土地を買って家を建てたいと言ったら、彼はすぐにのってきて、「私はこの近くに広い土地をもっています。その一部をあなたに安く売ってあげますよ。前にここに来たフランス人も熱心にその土地を調べていったけど、彼はどうしたのかな?」と遠くを見る目つき。
外人でも、この島の風景、生活に魅せられると言うのは良く理解できる。もっとも土地を売りたいと言うおっさんの不純な動機もよく理解できる。

  さてすっきりしたところで、どこへいこうか。天気がよくなって、太陽が少し顔を出した。幸せだ。
 先ずは博物館にしよう。前回のアチャオのそれはおもしろくなかったが、ここはどうかな?結論、全然おもしろくなかった。しようがない、私の興味のあるのはすごく古いもので、少し古い100年前の生活には食指が動かない。展示物の中にAPと言う表示があったので、これはどういう意味ですかと、館内にいたチリ人に聞いたら知らないと言う。で、この博物館の研究員のところに聞きに行った。
 それはAnte Pasadoの略で紀元前のことだった。それなら普通にAC(キリスト以前)の表示にしてくれれば良いのに。
 さてその館員と話が始まる。
 チロヱは、以前は本土と陸続きだったが、一万年位前、島になった。プエルト・モンのモンテ・ベルデ遺跡ほど古いものはないが、チロヱにもプエンテ・キロ(キロ橋)と言う考古学的に重要な遺跡があると言う。それはマンモスがこの辺りにも住んでいた時代のことらしい。その頃、ここに住んでいた人間が、その象を狩っていたのだろう。
 彼の話では、南米にも三万年前から人が住んでいた跡が残っていると言う。例えば、コロンビア、エクアドル、そしてブラジルとか。
 私は三万年まえの遺跡については知識が無かったので、大いに彼の話に惹かれたが(もしそうなら、アジア人がベーリング海峡を渡ってアメリカに来たと言われる一万三千年より、ずっと古く南米原人説になってしまう)、博物館で働く人間が、全く根拠のないでたらめを言うわけが無いが、彼の説はまだ世間では認められていない。
 親切にも自分のコンピューターから、そのプエンテ・キロの遺跡に付いての資料を探し出し、プリントしてくれた。
 そこは素人のゴンサロさんが、自宅の裏庭から大量の遺跡物を発掘しているらしい。もちろん、彼だけでなく正規の調査団が入り、発掘作業を実施している。
 最後に彼は、1960年のバルヂビア大地震のとき、(日本では三陸津波で知られる)、この町の大聖堂に大きなひびが入った。その時、日本から調査団が入り、彼らの結果は修復可能となったのに、その当時のチリ政府と、第十州の知事はアンクッ市の十分な補修費用を出さなかったので、次善策として、ダイナマイト一発で、大聖堂を倒壊させてしまった。この暴挙に市民は泣き崩れたらしいが、彼はその時の様子を、自分は子どもだったが、まだ良く覚えていると語った。
 多くの人々の努力で建設された大聖堂をダイナマイトで崩壊させてしまうなんて・・・・(ジェスイット派の共同体の話と似ている??)

 彼に御礼を言って外に出る。教えてもらった、プエンテ・キロ遺跡に出発だ。
そこにはコレクチボ(乗合タクシー)でいけるという。教えてもらった所に行くと乗合タクシーより大きい小型バスが止まっていた。何でも良い目的地に行ければ。中に二人乗っていた。私で三人目。ところがそれから人が集まらない。もっと乗客が乗らないとバスは出ないという。ここで空席があれば、戻りはもっと乗客が少ないだろうから、儲けがでないというわけだ。
 しばらく我慢していたが、その乗客の一人の女性が、何時まで待ってもでないこんなバスを止めて、タクシーの相乗りでいきましょうと誘う。異存なし。三人でタクシーを止めて値段交渉。普通チリでは近距離以外の場合はタクシーメーターが付いていても乗る前に値段交渉をする。そのほうが安心して乗っていられる(普通、こうして交渉した値段はタクシーメーターの表示より安く行ける)。その頃、ちょうど一台のピックアップが通りかかり、その女性は、運転手と知り合いだったのだろう、親しそうに話をして、車の中に。もう一人のおっさんも行き先が同じだったので乗る。なんだ、私だけ取り残される。

 私はもちろん費用よりも向こうに行きつくほうが重要なので。しかたがない一人でもタクシーで行こうかと、やってきたタクシーを止める。なんとそれはそっちの方はあまり行きたくないって断られる。戻りが空になるのだろうが、それでも片道、チャージできれば商売になるはずなのだが・・・。
 しようが無い、またバスに戻る。しばらくするともう一人の乗客が乗ってきて私の後ろに席に座りエンパナーダを食べ始める。強い匂いがバスに立てこもる。窓を開けた。自分が食べていると分からないのだが、他人の時は気持ちが悪い。別に急ぐ旅ではないが、せっかくこうして行く気になっているのだから、ぜひ向こうに行きたいものだと思っていると、すこしずつ客が増えてくる。
 バスの運転手は慌てることも急ぐことも無くのんびりと客を待っている。彼の人生に大慌てとか緊急とか言う言葉はないのだろう。しかしそれで生きていけるのならそれも素晴らしい。
 
 私のほかに乗客も集まり、一時間ほどしてから出発した。運転手が乗客の方を向いて、どこまで行かれますかと聞く。私とその後ろの乗客がプエンテ・キロと答えた。私は彼に、そこで何をしているのかと聞く。そこに住んでいると回答があった。私が遺跡を見に行くと言うと、その男は私の所だという。じゃ、ゴンサレスさんを知っているかとさらに聞くと、自分の父親だと言う。世の中は狭いものだ。博物館で教えてもらったゴンサロさんの息子と同じバスに乗り合わせたのだから。
なんだ、彼と一緒に行けば良いのか。二十数キロの距離を走って、バスはプエンテ・キロについた。息子はあつかましくも、そこを左に曲がってと幹線道路から中に入るよう指示する。運転手は嫌な顔もせずにはいはいとそっちの方へ。家の前に来て降りる。まるでタクシーで乗り付けたようだ。何かの記念だ、息子のバス代も私が払った。

 さぁいよいよ、発掘されたものが見られる。家の前にがらくたのようにして小屋があり、発掘物が展示されている、親父はいないのか、その息子がゆっくり見ていっていいよと言ってくれた。
 しばらくして親父が出てきた。きっと食事をしていたのだろう。私は考古学について非常に興味があるので、彼の発掘物の値打ちが少しは分かる。実にたいしたものだ。
 その頃の動物、おっ、マンモスもいたか、鯨のような大型の海の動物の骨(これは一部でなく体調数メートルのものが全部並んでいる)が目立つ。
 石の中では、やっぱり球形の石にすぐ目が行った。昔、コスタ・リカでこの丸い形の石を見たことがある。日本でも諏訪神社のご神体が丸い石だと聞いたことがある。川を流れてきて河口近くにくれば石は角が取れ円形になってくるがその円形と丸くしようと作った石の形は違う。川の石は角が無いというだけで球にはなっていない。ここで見る石は人間が意志を持って丸くしようとしたものだろう。世界にその話があると言うことは、古代の人間にとって球石が何らかの意味を持ち、そしてその価値観が世界共通にあったことになる。
 人形の形をした石もあった。あきらかに目的を持って石を加工しているわけだ。多分、面白い形をした石を集めてきて、その原型を利用しながらイメージした形に仕上げていったのだろう。そう言った石を加工する技術が、昔この地方にあったのだろう。
プエルト・モンにあるモンテ・ベルデ遺跡とここの関係について考察された記事を載せた新聞が飾ってあった。ゴンサレスさんによると、モンテ・ベルデの方は12000年前くらいだが、ここは五−八千年前のものと推定されているらしい。炭素14を使っての測定結果らしい。八千年前とするとチリの北のアリカ一帯にあるチンチェロ遺跡と同じくらいの年代だ。しかしエジプトのピラミッドとこれを比較するのはなんだが、一口に八千年と言うが、大変な数字だ。
見終わった後で、発掘場所を見せてくださいと頼むと、裏庭に連れて行かれた。庭から偶然、貝塚が見つかり、その後掘りつづけたら、動物の骨(とっくに死滅しているマンモスや、旧時代の鯨の骨)が見つかり、さらに探して石器を発見したと言う。
近所の家で、発掘作業をしている家はないらしいが、多分ここだけでなくほかの家の庭からも石器がでるはずだ。
彼はこの近くで生まれ、結婚してこの土地を買い、住み始めたと言う。もう70台の老人だが、話していることはしっかりしている。庭に発掘された場所があちこち残っていた。
ここはキロ川が湾に流れ込む河口近くで、農業と漁業が行われたのだろう。八千年前と今に地形の変化はなかったのだろうか?島が大陸と切り離されるとき隆起や沈没が起こったはずだのだが。
お礼をいって、見学の謝礼を置いて外に出る。

 さて外に出たら、歩かなければならない。もちろん、私は何の躊躇もなく歩き始める。ここの人は車が来なければ道を歩く。当然のことだ。昔アフリカに行ったとき、ジンバウヱでの事だが、隣の村まで二十キロを歩くのは普通と言う話を聞いて驚いた。っしかし彼らに取っては驚く方がおかしいのだろう。バスなんか何時来るか分からないし、おまけに乗車賃を取られる。歩けば無料だ。時間なんて無限にある。きっとこう言う感じだろう。
この島の人はそこまでストイックに歩きにこだわらないだろうが、少々の距離は歩いてしまう。これがサンティアゴの場合なら、歩き好きな私でも、通常なら半時間が精一杯で、一時間の距離なら歩かない。私のアパートからショッピングセンターまで歩いてちょうど半時間。そこまでで限界。ここの人は多分それが一時間かそれ以上なのだろう。
私でも山登りをしているときは、もちろんもっと歩けるが、その時は前の晩、身体に、明日はたくさん歩いていただきますが、そのつもりでと頼んでおく必要がある。心の準備が出来ていないとそう何時間も歩けるものではない。
 さてアンクッのホテルまで二十数キロだ。全部歩いても早足なら五時間強でつくはず。それに、とにかく隣村まで行けば、バスかコレクティボが見つかるはず。少なくともそこまでは、歩いていこう。一、二台ピックアップが通ったが、もちろん手をあげてヒッチハイクするような真似はしない。向こうから歩いてくる村人とすれちがう。見知らぬ人だが、歩いている仲間という気になって気軽にあいさつ。
 景色は海沿いの道だから申し分のない美しさ。何だかプンタ・アレナス(チリの最南端の都市)から石炭の鉱山に行くときに通った海沿いの道に似ている。
なにしろ雨が降っていないのだから、今までにくらべると完璧に歩きモードに入っている。弱気になる必要は全くない。ぐんぐん歩こうか、のんびり行こうか迷ったが、少し考えた後、疲れたらゆっくり、それまでは早足にする。しかしくだらないことで頭を使っている。そんなもん、どっちでもええやん。気の向いたとおりだ。
手持ちのバッグの中には、いつものようにミネラル水、筆記用具、果物(今日はバナナ)それに例の少し壊れた折りたたみの傘が入っている。これだけあるとかなりの時間は大丈夫。

 と言いながら、カーブを幾つか回って、十分身体が汗ばんでくると、このまま歩き通すのかとマジで自分の将来を心配し始めた。みっともない。ちょっと前まで三時間でも四時間でも歩くと言っていたのに、たった半時間で先のことを心配し始めて。と言っても実際に隣村につかなければ、乗り物はないだろう。弱気の自分を笑ってしまう。情けない。
 車が来たら、フーム、さっき馬鹿にしたヒッチ・ハイクをしそうな雰囲気だ。おっ、向こうに乗合タクシーが止まった。誰かを降ろして元の方向に戻っていこうとする。待ってくれ!それを目指して大きく手を振りながら、大声で叫ぶ。気づいたみたいだ。止まる。近づく。アンクッまで行くのかと聞くとイエスと返事があった。すぐに乗り込む。こうして私の長時間?の散歩が終わった。本当に口ほどもない。
キンチャオからアチャオに戻るときも何時間でも歩くぞとか言いながら、ほんの数分しか歩かなかったし、ここでも一時間も歩かなかった。いかにも私はバックパッカーですと言う風に文章を書きながら、実際は・・・・。
 私の他にも何人かの、乗客を乗せて(途中で入れ替わったが)タクシーは町に戻った。ホテルの近くで降りて、部屋に戻る。疲れたので、ベッドに寝転がって本を読み始める。しかし贅沢な気がする、ベッドに寝転がって本を読んでいるのは。おまけに窓の外には海が広がっている。

 さて、疲れが取れたので、しばらくして外に出る。公民館で美術展をやっていたので中に入る。アマチャー風の稚拙な作品から、立派なプロの作品まで展示してあった。
 それにしても自分の作品をこうして公開するのは、素人の場合はそれだけで最高の気分だろうが、プロなら金になるかどうかが問題で、展示会を楽しむことは出来ないだろう。趣味を仕事の糧にして生活できるほど世界は甘くない。
(と、えらそうに、言ってしまった。しかし私は、自分はその道のプロと称しているタイヤに関して、本当のところは、大してわかっていないのだ。それがプロとしてチリの中で通用しているのは、給料をもらっていると言う意味だが、他の人がもっと知らないと言うだけのことだ。この意味では、プロの芸術家も、例えば、俺のバイオリンはたいしたことないなと思いつつ、でも他の奴はもっと下手だからなんて言っているのかもしれない)
 
 それから散髪屋を探す。べつに町一番の理髪店を探すというのではない。どこでも良いから、髪の毛を短くしたいと言うのだ。午前中、ペンションのおかみさんが私をじろっと見てから満室ですと言ったのは、どう考えてもぼうぼうの長髪に、無精ひげのおかげだ。
 さて私が入った散髪屋の女性は、結構若いのにオーナーと言うので驚いたが、母親が経営者で娘の彼女は、母親が夏休みの間は、一人で取り仕切っているのだった。彼女もご主人もこの島の人間で、島の外に出て、生活するのは考えられないといっている。もちろん、主人が本土に転勤になれば、しかたない、一緒に行きますよとのことだったが。
 この島の人から、そういう言葉をたくさん聞いた。「この島が好きだ。ここで住んでいたい」と。それは、この島がチリで一番豊かだとか、将来性があるとか、給料が高いなどという物質的なメリットを指しているのではなく、豊かな人情がまだ残っているのを評価していると言う意味なのだろう。
私もほんの短い旅だったが、それを感じた。自分も楽しく生きる、そして他人も楽しく生きているのを感じることができる。これは生きていく上で素晴らしいことに違いない。
 さてその理髪店で、少し切ってくださいと注文を出した。ちょっとだけ。そう言ったのに、女性は大胆に私の髪を切り始めた、ちゃうで、ちょっとだけ。ちょっと切ってくれと言った「ちょっと」を髪の毛をちょっとにしてくれと聞き間違えたのではないか?大丈夫、あんたの髪はボリュームがあるからたくさん切っているように見えるだけと、分けのわからない説明を受ける。彼女の仕事が終わると、私の頭はほんとうにすっきりと短くなっていた。この店に入る前は後ろで、髪の毛を結べたが、今は全くそれは出来ない。複雑な気持ちで外に出る。

もう夕方だけど、今日の朝刊を買う、キオスコに着荷したばかりだ。何しろ、ここは本土ではないのだから。
 急に雨が強く振り出した。新聞を頭に乗せながら、道を急ぐ。そうだ、あのホテルでコーヒーを飲もう。午前中、満室を理由に私を蹴った、現在のこの町で一番良いホテルに入る。もう濡れないですむ。ほっと安心。コーヒーがあるかと聞くと、ちゃんとあるようなので、コーヒーラウンジに入り、イスに座って新聞を読み始める。
 しかし、旅を始める前、今回は貧乏で行こうと決めたのに、ホテルに泊まろうとか、そのホテルのレストランでコーヒーを飲もうとか、私の決意が非常に軟弱であることが分かる。最後まで意志を貫通できない自分が情けない。でも気持ちいいから・・・。
 窓の外を見ると道路が見る見る濡れていく。そして冠水し、最後には水溜りがぐんぐん広がっていった。側溝に水があふれ始めた。しかしさすがにここは水に強い。サンティアゴなら、これくらいの雨でも、完全に水害騒ぎだが、ここでは、水慣れしていると見えて、どこからもクレームが出てこない。
 ところでコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいると、もう自分がチロヱにいるのか、サンティアゴにいるのか、はたまた日本にいるのかもわからなくなる(チリの新聞を読みながら日本を思い出すことはないかな)。つまり気持ちの良い空間と言うのは、世界共通だからだ。
もっともこの気持ちの良い空間には、このホテルのコーヒーラウンジのような近代的な設備のある所と言う意味ではない。涼しい風の吹いてくる夏の木陰の気持ちよさは、カリブだって、アフリカだって、チリの南部だって同じと言える。それは「気持ちの良い空間は世界共通だ」ということの中に含まれる。

しならくして外に出るとまだ雨は降っていたが、さっきのしのつくような激しさではなかった。半分壊れた傘をさしてもう一度ホテルに戻った。
ここでは時間がゆっくり流れる。サンティアゴの半分の速さくらいに感じられる。なにしろ、「慌てることはない、まだ午前中だ」とか、「何だまだ午後五時じゃないか」と言う感じ。サンティアゴの事務所で、何時までにこれを仕上げて報告しなければ・・・と言うのと大違いだ。
そりゃそうでしょう。仕事と休暇の時間の流れが違うのは当然よ、と言う声も聞こえそうだが、もちろん私はその差を認識しつつ、こう感じているのだ。   
ここの人は職場と住居が極めて近い(そう言う人が多い)ので、仕事をしていても半分自宅にいるような気になっている。
銀行の窓口で、首都圏の人と同じ業務をしている人だって、並んでいる顧客が、首都圏の人のようにいらいらせかせかしていないから、おおらかに接客できる。つまりここでは仕事の時でさえ時間の流れに余裕がある。
鶏口となるも牛後となるなかれと言われるが、大都市の中で、人の後ろを歩くのと、こんな小さな島で胸をはって生きるのとどちらが生きていて張り合いがあるかと言う問いかけになるかもしれない。もちろん社長を目指す人間もいれば、生涯一社員で十分と言う人間もいるはず。ただ時間を裕福に使うには、大金持ちになるか、大金持ちになる夢を捨てる必要があると言えるだろう。
同じチリでも、首都のサンティアゴとこの離れた島では人間の生き方が違う。そしてその首都のサンティアゴだって、私がついた二十数年前ではもっとのんびりしていた。グロバリゼーションとか言って世界共通の規準で生きていこうとすればどこかに無理が生じるのは当然だ。
日本はチリに比べるとGNPは約10倍と大差をつけているが、その無理が毎日の生活にきていると言うのは無茶な理論ではないだろう。

さて夕食をとりに再度町に出る。普通のレストランでアラカルトを頼むより、この地方の定食を食べたいと、そう言う雰囲気の店を探す。ぴったりの店が無かったので最後は適当にする。私は粘りが少ない。