チリの風  特別編  チロヱの旅(1)

 私の場合、バケーションと言うとカリブと言うイメージを連想してしまうのだが、今回は身近な所を目的地にえらんでしまった。
 と言うのは、今年の休暇は、子どもが冬季休暇に入る7月にアジア旅行をしようと計画していたので、夏の休みは取らない予定にしていた。それがなぜか突然、一週間だけでも休もうと気が変わり、それなら地球最南端の町、アルゼンチンのウスアイアに行こうと思い立った。しかし、その町に近いチリのプンタ・アレナスまでの便が、私の乗りたい18日は満席だったので、それほど突然に計画を立てたのだが、しようがない、第2の案として、チロヱ島を選ぶ。それもまぁええやんと納得。
 そんな計画性の無いことで、大丈夫かと思われそうだが、仕事に関しては、こんな良い加減なことでは通用しないが、遊びの旅行なら、それでも良いはず。この休暇旅行が、本当に計画性が無いことは、この旅行記を読んでもらえばさらに?納得してもらえるが、それでも楽しく旅をして戻ってこれたのだから、良しとしましょう。それでは話の始まり。

      1日目(2003年1月18日)
 確かにプエルト・モンに行く便も満席だった。さすがにこの時期、外人観光客のグループにチリ人観光客も加わり、空席を争うようなことになっているのが、実感できた。
 1時間半の飛行で、機は目的地に到着する。到着前に現地の気温は摂氏10度とアナウンスされたが、連日30度でうんざりしていた身体には快適な知らせだった。

 今回はできるだけ、貧しい旅にしようと考えていた。昔、若い時代に自分が経験したような旅。
 さて前日、56歳の誕生日を会社でも、自宅でも祝ってもらった。会社の場合は、同僚が近づいてきて、一人ずつ抱き合って祝う。(男性社員ともちゃんと抱き合って祝うのがここのしきたり)、家の場合は子ども二人が、ホットケーキとクッキーを作ってくれた。年はとりたくないが、年をとってしまう。
 さて貧しい旅にしようと思っても、昔の本当に貧しい旅とは基本的に違う。今ならキャッシュカードやクレヂットカードがあって、どの瞬間でも、貧しい旅行は止めて・・・、と思えばすぐに通常のレベルに戻れるわけで、イミテーション貧乏でしかないのははっきりしている。

 ところで、今回の旅には不安材料が一つあった。それは私の足だ。昨年8月交通事故にあい、右足を三ヶ所骨折したが、それが直りきらないのだ。医者は40日はめたギブスをとったとき、次の三項目を私に言いわたした。
 その1 ギブスは取れてもまだ骨折は直っていないので、日中は包帯を巻いておくこと
 その2 病院に来て、リハビリテーションをすること。 
 その3 年内はスポーツをしないこと
しかし私はそのすべての項目を無視して、独自の行動をとってしまった。もちろん医者の言う方が、わたしの足には良いだろうが、それでは私の人生に悪い影響を与えてしまうと考えたわけだ。
ギブスを外したとき無残に腫れあがった足を見て、これ以上足に不自由な思いをさせたくは無いと思ったこと。会社にいかず、(もしくは早退を続けて)リハビリに通うのは気が引ける。さらにこれ以上スポーツをしなければ、筋肉が退化してしまい、もう二度と競技生活に戻れなくなると考えた結果の判断だった。
しかし、私の願いに反して、事故後5ヶ月たっても足の腫れは完全には引かず、もしかして永遠に元のレベルに戻れないのではないかと心配し始めていた。
もっとも医者の言うことを全く聞いていないので、いまさら医者の所にもどるわけにも行かない。

飛行場を出た私はバスを探す。この町には2ヶ月に一度の割合で仕事に来ている。そのときはもちろん、私の所属している会社の現地の人間が、ちゃんと空港に迎えに来てくれているが、今日はバケーション。迎えはいない。
バスに乗って早速原稿を書き始める。後に乗ってきたフランス人グループの一人が、私にニーハウと言った。書いている字を見て中国人と思ったのだろう。
このバスは町のバスターミナルまで行く。着くと何人もの客引きが寄って来る。ペンションありますよと言って。部屋代は4−5千ペソくらい。
すぐにチロヱ行きのバスの切符を探す。1時間あとにそれは出て空席があった。まず島の一番遠い所まで行ってそのあと、ゆっくりここにに戻ってくることにした。この町から島の南端ケジョンまで5400ペソだった。
1時間あったのでプエルト・モンの町に出る。公演の隅にどこかの業者がジェットコースターを敷設していた。遅い。今から準備していれば、観光シーズンが終わるころ完成するはず。で、準備に掛かった費用も回収できず倒産だろう。遅い、一ヶ月以上。
もっと歩いていると、あるグループがギターをかこんで歌っていた。グループ、ロス・ハイバスの曲を。私の知っている曲だったので、一緒に歌おうかと思ったが、そんなことをしているとバスに乗り遅れるから、がまんする。バスの出発時間が迫ってきた頃、ふと、島に渡ったら、銀行なんてないかもしれないと思った。つまりキャシュカードは使えないだろう。おまけにクレヂットカードの使えるホテルやレストランに行かないかもしれない。ということは現金を持っていないと生活に影響する。そうだ、現金だ!とあわてて、キャシュカードの使える機械を探すが、バスターミナルにはなく、近くのスパーマーケットに走った。よかった、これで安心して旅行ができる。

やっぱりそのバスも満席で出発。さすがに観光シーズンだ。さてチロヱの最南端まで行くバスなので、きっと悪路を走るのだろうと思ったが、そのタイヤを見るとブリヂストンのR250。これは良路用のパターンで、しかもトレッド(タイヤが地面に接するところ)にカット傷が無かった。つまり意外に道路状態は良いことが確認できた。(ごめん、タイヤ業界の話になってしまった。この先、タイヤのことは書かないが、やっぱり職業病で、どこにいってもどのブランドのどのパターンのタイヤが使われているか気になって見てしまう)

一時間掛かって、本土の終り、島に渡るフェリーの乗り場に着く。ここも後何年かで橋がかかり、このフェリーは消えていく運命にある。日本での青函トンネルと同じ。もっとも距離、規模は全然違うが。約30分で対岸に渡る。
バスから出て、船のデッキで景色を見ていたが、風が強く、とても夏とは思えない寒さ。夏のチリから冬の日本に旅しているみたいだ。
それにしても旅に出ると、すぐに考えるのだが、今回の私のようにごく短い期間、楽しく島をまわるのが目的の旅でさえ、何らかの問題が予想されるのに、今から五百年前、南米に向かったスペイン人たちの旅はどんなに厳しいものだっただろう、もっと遡ればベーリング海峡を越えて、アジアからやってきた初期のアメリカ人たちの旅はさらに過酷だったに違いないが・・・・

バスは途中の町、アンクド、カストロなどを経由して南へ降りていく。人の動きが多い。たくさん降りて、たくさん乗ってくる。普通、長距離のバスでは終着が近づくと乗客が減るものだが、このバスは最後の区間になって、あかちゃんを連れた母親などが乗り込み、立ったままの人が多い。あかちゃんの一人が泣くとつられて他の子どもが泣き始め、合唱みたい。しかたない、私は立って席を譲る。子どもがこんなに多いと言うことは、この島の平均年齢が、本土より低いと言う証拠だろう。
近くに座ったおばさんはオソルノ(プエルト・モンの北約100キロ)の軍隊に自分の息子が入隊しているので、面会しての帰りと言う。彼女はこの島の南端のケジョンから更に小船で六時間のところにある小島に住んでいる由。さらにその便は週に一便とか。フーム。
最初からの乗客はほとんど降りてしまい、このあたりで乗客の顔を見ると、いつも首都サンティアゴで見ているチリ人とは全然違うことに気づく。現地の人と言う顔をしている。
私は無知だから、チリの南の原住民といえばマプチェしか思いつかないが、そんなことでは、チリ人は日本と中国・韓国が区別できないと言って憤慨する私たちと大差ないだろう。勉強不足でごめん。
そう言えば、プンタ・アレナスの原住民が今月一人死んで、その種族で、残ったのは高齢のおばあちゃん一人になったと報じられていた。
日本人が全部死んでいって、残ったのが後一人なんて想像できるだろか?

外は雨になって、見る見るうちに道路が濡れていく。
それにしても森が無い。起伏に飛んだ土地なのに森が無い。なんだか大げさに言えば、ゴルフ場が続いている状態で、しっかり生えた森が無い。チリの南は第8州から、森林伐採の仕事がメイン産業になっているがここはそれが無い。なんとも不思議な気がする。もちろん、理由ははっきりしている。木の伐採は個人レベルで行えるが、植林はまとまった規模の事業になるから、ここまで本土や外国資本が入り込んでいないのだろう。つまり切るだけは切ったが、木を植えていないので、ゴルフ場のようになるわけだ。
この辺りは魚貝類の採集が主な産業だったが、近年の赤潮さわぎで大打撃を受け、今では鮭の養殖が大事な産業に育っていると聞いた。
島に入ってから200キロを4時間掛かって終着駅に着いた。午後5時15分。曲がりくねった道に、一部道路工事中だったから、平均時速50キロは立派なもの。
降り出した雨は暴風雨に変わっていた。バスの下の荷物置き場から自分のリュックサックを受け取る間に身体中が濡れてしまうほどの雨だった。バスの車庫に一時入り作戦を考える。回りの乗客に聞くと、この前の道を歩いていくとペンションやホテルがあるという。じゃ歩き始めるか。
サンティアゴの住民の例として雨の日には傘をさす。リュックから傘を取り出し、歩こうとすると強い風が一瞬のうちに傘をまったけにしてくれた。えいっ、しようがない傘をあきらめて濡れていく。しかし雨はその量をさらに増し、凶暴に襲い掛かってくる。今は1月、夏のはずなのだが、まるで冬の嵐だ。
少し歩くと公衆電話屋さんがあった。雨宿りを兼ねて中に入る。そう言えば、この商売は10年前にはチリ中にあったが、年々少なくなっていき、今では首都では見られなくなってしまった。各家庭に電話が普及し、更に携帯が普及した今、公衆電話の必要性が減少しているからだ。先年日本に行ったとき、公衆電話が無くて不自由したのを思い出す。
そこから息子に電話をかけ、えらい暴風雨で苦戦していると伝えた。じゃ、魚釣りは無理だね。彼の興味はそこにしかない。
さて店番の女性から、歩いてすぐの所に泊まれる所があると聞いて出発。すぐその店に入った。レストラン兼ホテル。高いの安いのと言っている気は無い。空いている部屋があったのでそこに決める。
着替えをして、濡れた体を乾かすと、もうこっちのもの。幾ら雨が降っていても部屋の中まではこない。窓際から雨の降りしきる外を眺めるのは気持ちの良いことだった。
下に降りていって、何か食べることにする。チリではそれをオンセと言うが5時のお茶と言う感じ。雨の降る日に暖かい部屋の中で、楽しくお茶を飲むのはたまらない幸せ。何もしたくない。それでは旅にきた値打ちがないと言われるかもしれないが、旅に来て何もしない幸せを味わうのも無上の幸せ。
もっとも、そんな時は持ってきた本を読むわけですよ。私はいつも旅に出るとき本を持っていって、ちょっとしたときに読み始める。今回は全アマゾン川下りとスカートの中の秘密の2冊。もちろん、その他に何かあったらすぐにメモをとる習慣もついている。
さてしばらくして雨が小ぶりになったので散歩に出ることにする。オンセを食べてもまだおなかがすいていたので、バナナと菓子パンを買って食べる。バナナは安いしおいしいし栄養になる素晴らしい食べ物だ。私は登山でもマラソン練習でもバナナを食べる習慣がある。
ついでだが、私は小遣い帳を、日記とともにもう三十年つけている。このバナナと菓子パンは450ペソ(1円を7ペソで計算すれば、70円弱ですね)

町を歩いていて、店番をしていた老人に話しかける。彼らは暇なので、通常良い話し合い手になってくれる。
「こんにちは、おじさん、凄い雨でしたね。ここではあれは普通ですか?」
「いや、今年の夏は、やっぱ、異常だね。雨が多いよ。フン。夏らしい日が無いんじゃよ。どうしたのかな」
「チリの南と言えば、林業ですが、この島には林がありませんね。どうしたんですか?」
「もちろん、この島も昔は森林で覆い尽くされていたよ。しかし切ってしまったんじゃよ。農業をするためにな。政府がインディへナに土地を渡したのは間違いだったね。もう随分昔のことになるが。あいつらは、農業をするために闇雲に木を切って、結局土地をだめにしてしまった。小作人として働くのと自営農として働くのでは才覚に大きな違いが必要なんじゃよ」 
 これはわかる。私もチリに20年以上も住んでいるが、独立して商売を始める気にはならない。自分にはその才覚がないことをよく知っている。サラリーマンは給料日を喜ぶが、経営を始めると給料日には、お金の工面をしなければならない。土地を手に入れたインディオがそれを使いこなせなくて、酒に溺れたりして、土地を売ってしまうと言うパターンは容易に想像できる。
 プンタ・アレナスの例では欧州から来た毛皮商人がアルコールを飲む習慣のなかった原住民に最初安くアルコールを渡し、それを飲む習慣をつけさせてから急に値段をあげて、彼らの生活を破滅においやったと言われている。
 おじいさんは昔話を、のんびりと続けた。また雨が激しくなってきたので、彼と別れ半分つぶれた傘をさしてホテルに戻る。この話をノートにつけてから、また本を読み始める。

 夜になったので、ここでは夜十時まで明るいから、八時とか九時では夜と言うより午後と言う感じだが、いつもの時間通り八時に夕食を食べることにする。ホテルの食事は高いから町の安食堂に入る。
 この旅の間、私の食事はいつも定食、鮭料理かカスエラ(肉か鶏肉が入った野菜スープ)だった。この晩はカスエラ。旅に出ると思うのだが、サンティアゴの自宅にいるときは食べ過ぎている。旅に出れば、いつでも御茶やコーヒーが飲めるわけではないし、いつでもトーストを食べて、飲み物を飲んで、お菓子を食べることも無い。それでも全く支障なく生きていける。つまりサンティアゴでは必要以上に、単に習慣として飲み食いしているのだろう。
 さてその店のおやじと話を始める。失業率?ここは低いよ。仕事をする気があれば、仕事はある。それに犯罪が少ないしね。まだまだここは良いところだよ。他の客もそうだそうだとうなずく。

 店のテレビで九時のニュースを見ていると雨が一層ひどくなってきた。明日はどうしよう?
 この段階で、まだ予定を立てていなかった。一番南に来ているのだから、北に上がっていくしかないが、何もしないで上に行くのも芸が無い。
 旅をする理由はなにか?「世界中で人々が、自分と同じように喜び苦しみながら生きているのを確かめるためですよ」なんて、甘いことを言うのは旅の初心者だ。決り文句過ぎる。じゃ、藤尾さんはと言われそうだが、私は旅に出て、風を楽しんでいるのです。どこにいってもそこに吹いている風を身体で楽しむのです。ネパールに行ってヒマラヤを渡ってくる風を楽しみ、モロッコでサハラを渡ってくる風を感じ、ジャマイカでカリブを通る透明の風を見るのです。ねっ。こうして一日目が終わった。