チリの風・番外編旅行記 「私のパタゴニア  Mi Patagonia  Peter Fujio   2016年」

私のパタゴニア    Mi Patagonia
                       藤尾明憲 Peter Fujio   2016年

パタゴニアについて何か書いてみる気になった。パタゴニアはチリだけでなくアルゼンチンにも広がる大地のことだが、チリのパタゴニアを中心に私が経験したことを書きたい。
私はチリに1979年に入国した。タイヤの仕事についてパタゴニアの中心地プンタ・アレナスに最初に行ったのは 1981年。もう35年も昔のことだ。長男が生まれたとき、私は直ぐに病院に行けなかったが、それは出張でプンタ・アレナスに行っていたからだ。懐かしい思い出。
歴史的な事実から話を進める。
この地方がパタゴニアと名付けられたのはマゼランの航海の時だ。1520年のことになる。チリへ来た最初の欧州人が彼らになる。ピサロがインカを滅ぼしたのはそれよりかなり後の1531年のことだ。そしてスペイン人がペルーからチリに入ったのは更に後になる。
スペイン語でパタは足、ゴンは大きい。パタゴンは足が大きい人と言うことになる。つまりパタゴニアは「足の大きい人が住むところ」英語風で、ディズニーランドみたいにすればパタゴンランドになるだろう。
スペイン語で鼻はナリス。つまり鼻がでかい人間はナリゴンとなる。そんな場所はないか。
さて何故パタゴニアと言われたかには二つ説があって、一つは巨人がその地区に住んでいた。もう一つは裸足では寒いから動物の皮をはいで靴にしていたので彼らの足跡が巨大に見えた。確かにその地区で見つかった人骨で身長が2メートルを超える人間がいたことは確認されている。彼らはテウエルチェ族と考えられている。(ヤーガン族とも言われる)この地区で有名な種族はヤマナ族(オナ)で祭りのときには全裸で身体中にペイントする。その写真はパタゴニアの土産物屋さんに行けばどこでも飾ってある。

マゼランが船から見たとき、陸地に赤々と火が灯っていたので、彼らはそこを「火の大地」と名付けた。これを聞いた時、私は先住民は石油・天然ガスを燃やしていたのかと思ったが、違っていた。(彼らは火打石を使っていたことが分かっている)パタゴニアに石油・天然ガスが見つかったのはごく最近、20世紀になってからの話。その大半はアルゼンチン領から採掘されている。
日本語ではその陸地をフエゴ島と呼んでいるが、マゼランは島でなく陸地と呼んだわけだ。
フエゴと言うのはスペイン語で「火」のことだ。
それから、マゼランと言っても世界の誰も分からないだろう。彼はポルトガル人で本名はマガリャンイスだが、スペイン語ではマガジャネスとなる。彼をマゼランと言うのは日本だけだ。
西回りで世界一周を目指したマゼランは三つの問題を抱えていた。先ず組織の問題。そして食事の問題。最後の一番厳しい問題はルート捜しだった。
1519年、彼は5隻の艦隊の隊長としてスペインから航海に出た。乗務員は合計270名と言われる。
組織の問題とは彼はスペイン艦隊の総監督だったが、スペインと争っている敵国のポルトガル人だったことから、艦隊を形成した船の艦長から全面的な信認を得ていたわけではなかった。実際、航海が始まってから反乱がおこり、反抗した幹部を殺す最悪の事件まで起こっている。その時は権力を利用して表面的な平静を取り戻したが、最後までマゼランは彼らの信頼を勝ち得ることはできなかった。
食事の問題は、2年間で世界一周を達成する計画で食料を準備したが、食料不足が深刻になってしまう。例えば堅パンを100トン用意したが、すぐにパン粉になってしまい、中に虫があふれる。しかしそれを食べるしかない。またネズミが現れると、それも殺されて乗務員の腹の中に入って行った。マゼラン海峡に入った段階で食料品の在庫が後3か月になってしまい、先を懸念した1艘の船が、自分たちの食料品を積んだまま味方に連絡することなく本国に逃走すると言う事件も発生している。                       
最後のルートに関しては、500年たった現在に、その当時のことを考えてもマゼランの航海は奇跡だったと言える。彼らの描いたと言われるマゼラン海峡の地図を見たが、プンタ・アレナスのある大陸の前にフエゴ島があり、その間が海峡になっている。どうしてそれが海峡と言うことが分かったのだろうか。ウルグアイで彼らは海峡と間違って川を遡ったりしているのだから。
彼らの成功で欧州から西周りで世界一周が出来ることが証明されたが、その直後、同じような航海はあまり繰り返されてはいない。                        
プンタ・アレナスのある州は第12州と言われるが、それは4つの郡で構成される。州都プンタ・アレナスのあるマゼラン郡、そしてフエゴ島郡、南極郡、最後にウルティマエスペランサ郡だ。それは最後の希望という意味。大西洋に行くためリマから降りてきた船団がマゼラン海峡が見つからず、どうしようもなくなった時、着いたのがプエルト・ナタレスの町があるところだった。もちろんそこは海峡ではなく、行き止まりで最後の希望は消えて行った。すごい名前が残ったものだ。
さてマゼランの航海に戻ると、1519年9月にスペインを出発し、3か月でブラジルのリオに到着。翌年1520年にさらに南下を企て10月末にフエゴ島に到着しマゼラン海峡を発見。そして太平洋に出る。翌年1521年3月に太平洋のグアム島、さらに1週間でフィリピンに到着している。マゼランはそこで土地の人間と争い戦死している。
結局出発の3年後に、1隻だけが世界1周を完成し1522年にスペインに戻った。ゴールにたどり着いたのは5隻のうち1隻、270人のうち18人と言われる。
出発時の270人は大半がスペイン人だが、ポルトガル人37人、イタリア人30人、ほかにアジア系・アフリカ系が15人ほど。戻った18人の中で最も有名になったペガフェッタは時のローマ法王と面談し、旅の報告をしている。
旅の途中で船に乗った(拉致されたのか) パタゴニア人数名は、途中で全員が壊血病などで死亡したらしい。
彼らは世界一周を成し遂げた英雄と言われるが、食料を欠いた彼らが陸地を見出せば上陸して食べ物を探すのは明白。レストランで食事をするのではないから、地域住民からそれを強奪するのは通常だったろうし、性欲を満たすため女性を強姦することも当然だっただろう(これに関して乗り組み員はそんなこともあったかもしれないと軽く流している) つまり、彼らを犯罪集団と考えても不自然ではない。
インカを滅ぼしたスペイン人も同じ系列だし、それと同行したカトリックも同じ犯罪集団と言えないことは無い。先住民の持つ財産(金・銀)を強奪すると言う目的を隠すように、キリストの教えを受け入れられない文化・種族に未来はないとして先住民を殺したスペイン人の側にカトリック神父は立っていたわけだから。勝てば官軍と言うのは世界共通の事実なわけだ。もちろん、彼らに先立ってアメリカ大陸を発見したコロンブスの旅もマゼランと同じだったことは言うまでもない。
さらに付け加えれば、人で不足を補うため、スペイン、ポルトガルアメリカへ一千万とも言われる数のアフリ人を奴隷にするため拉致して送り込んでいる。このアイデアを出したのはカトリックだった。商品の奴隷が旅の途中で数多く死亡すると言う過酷な船旅を含め、人間性などは一かけらもない。両国にその罪悪感は全く残っていないようだが。
資本主義の基本になるのは資本、労働そして土地だが、アメリカから多くの金銀などの貴金属を奪い、奴隷を駆り立て、それらを基本に資本主義が欧州で発展していったのは歴史上の事実だ。つまり民主・人権などに関し欧州が世界の先進と言われるのは全く不思議な気がする。                                
イギリスはかなり遅れて1578年にドレークがフエゴ島を探索している。その後、スペイン人は1584年マゼラン海峡に面したところにフェリッペ帝王と名付けた砦を作った。  さて、マゼランの後に何隻かの船がパタゴニアに入ったが、彼ら欧州人がそこに移住することは無かった。それが実行されたのは、非常に時間が過ぎた1800年代の後半になってからだ。
黄金郷(エル・ドラド)を捜しに来たスペイン人には、金や銀が無ければどこでもそれほど魅力がないと思われていた証拠だ。                                          
クスコを本拠地にしたインカはチリの中央部、サンティアゴより南の第7州まで侵入している。現在サンティアゴの中心になっているカトリックの大聖堂があるところをアルマス広場と呼んでいるが、そこはインカ時代も町の中心だったようで大聖堂の地下からインカ時代の遺物が見つかっている。インカは精巧な石組で作られた建築物が有名だが、サンティアゴ地区にはそのインカ建築物はない。つまりインカがサンティアゴに来たのはスペインに滅ばされる少し前と言うわけだ。
そのインカが侵入出来なかったチリの南部はマプチェが治めていた。しかし彼らもその頃パタゴニアまでは入っていない。                  
つまりパタゴニアの先住民は、世界最南端だから、北からの敵しかいないが、侵入されたことは無いようで、独自の生活を1万年ほど、但しほとんど進歩もなく送っていたようだ。フエゴ島で発見された一番古い遺跡は紀元前7600年と言われる。
長い冬の寒さにもわずかな服だけで耐え凌いでいたし、家を作らずテントを張って生き延びていたと考えられる。農耕が無く、狩猟によって食物を手に入れていたわけだ。冬の寒い海に入って魚貝類を取るなんて、快適な毎日だったとはとても思えない。文字が無かったので彼らの歴史についてはほとんど知られていない。
チリ側のそれらの先住民の数は1万人、2万人、一番多い説では3万人がパタゴニアに住んでいた。彼らは欧州人が来るまで、ほんの150年前だが、それほどの数の先住民がいたわけだ。
彼らは今どうしているか?ほとんど全員が死んでしまった。
欧州人が持ってきた病原菌が免疫のなかった先住民を襲った(その中で有名なのは麻疹)と言う説や、毛皮などとの交換に欧州人がたばこ・アルコールを教えたから生活が狂ったと言う説、西洋人が教えた洋服を着る習慣が問題とも言われる。つまり毛皮を着ているときは、風邪をひかなかったが、洋服を着て雨に降られると風邪をひき、それが死につながったと言うわけだ。いろんな説があるわけだが、一番はっきりしているのは欧州人が彼らを殺したと言うことだろう。
年末に国立美術館パタゴニア先住民写真展があった。3人の写真家の作品が展示されているが、中心はマルチン・グシンデで、彼は1918年から1924年以にかけて現地を訪問し、写真を撮っている。彼はキリスト教の若い宣教師としてチリに来ている。
つまり現在のチリ側パタゴニアの中心のプンタ・アレアス周辺では先住民は1800年代中に駆逐(?)されたが、もっと奥の方では彼らは生き延びたと言うわけだろう。
私がチリに来て何年かしてから、パタゴニアの最後の原住民が死亡と言う報道があったが、それは誤りのようだ。現在、2か所で先住民が確認されているらしい。一つはプンタ・アレナスの北にあるエデン港と言う過疎村で、人口200人の中で10数人はカウェスカル族、フエゴ島の南にあるナバリーノ島にもヤーガン族が何名か存在とか。
何故、先住民が死滅と言う報道が流れたかと考えると、三つの可能性があるのではないか。
まずはマスコミが先住民について関心が少なかったかもしれない。重要なニュースと思わなかったのだろう。二つ目はチリの国勢調査の時、他の先住民の子孫は、例えば、ケチュア、マプチェなら、自分はその系統ですと、胸を張って言うだろうが、パタゴニアの彼らは、それを告げなかった。最後の可能性は、彼らが住む辺境な土地にチリ政府の人間が国勢調査に訪れ無かったのかもしれない。
しかしパタゴニア先住民の最も悲しいケースは第11州のカウェスカル族の何名かが欧州に連れ去られ、動物として欧州各地で見世物になったことだ。彼ら全員は二度とチリに戻ることは無かった。
写真展に展示された150の作品を見ると、冬の雪が降っているときに動物の毛皮で作った靴を履いている人も裸足でいる人もいる。零下の所で裸足でどうして生き延びれるのか?オーバーとして毛皮をかぶっているが、下着は無いようで、冷たい空気は身体に入ってくるのは間違いない。と言うことは人間も動物と同じように、零下になるような地区でも、衣服・靴をつけないで生存する能力を持っていると言うことだろう。これは原始人の話でなくほんの100年前の事実だ。    

家は木材を組み合わせた上に毛皮で覆うテント式でとても中に暖かさを保てるとは思えない。農耕の写真はなかったから、果物(ほとんどないだろうが)でも取る以外は海に入って魚貝類を収穫するだけが食料を獲得する道のようだ。                          
イギリスの海軍の船ビーグル号が、マゼランから3 百年の後、1830年この地区を通ったが、マゼラン海峡よりずっと南を通過している。その2回目の航海の時1832年、乗船していたのがダーウィンだ。ダーウィンはチリで多くの足跡を残している。
1833年にイギリスがフォークランドを占拠している。ビーグル号は観光に来ていたのではないと言うことがよくわかる。                        
チリは1818年にスペインから独立した。
独立した時点での領土は現在の第3州から第8州までだった。面積でいうと現在の三分の一。今のような細長い国ではなかったわけだ。
その後、北部では硝石関連事業で許可を得てボリビア領土に入り、採掘の仕事を進めていったが、ボリビアがチリ企業に課す税金を契約した数字を守らず上げたため、両国間で摩擦が起こった。                                      そしてチリ対ペルー・ボリビアの争いが戦争になる。その太平洋戦争に勝利したため(1879―1881年)北の国境はペルーと接するアリカまでになった。
南部に関しては9州のマプチェを抑え、10州はスペインの残党を押しのけ、11州、12州とマゼラン海峡を含むパタゴニアをすべて抑えたかのように見えた。 
そのころパタゴニア・アラウカーノ王国が誕生している。全く世界に知られていないが、フランス人がマプチェと連結して、国の形態を整え、彼が国王になると宣言している。おとぎ話の世界だが、もちろん、その後、彼はチリ政府から国外追放の処分を受けている。   
1800年代の後半、チリ政府はチリ南部の活性化を図る。最初の移民はドイツから第10州のジャンキウエに入った。その後もっと南の第12州のパタゴニアにも移民を送り始めた。その中ではユーゴスラビアからの移民が多かったと言われる。 プンタ・アレナスの 街の中心にユーゴスラビア人会館があった。それはユーゴスラビアが崩壊した時クロアチア人会館に変わっている。

チリ政府は移民してきた 各家族に二十ヘクタールとか言われる広い土地と植物の種子を渡し、パタゴニアに移住させた。
彼らは先祖代々そこに居住していた先住民を追い払うのだが、その時、銃を使っただろうから、皆殺しと言う事態になったわけだ。

その移民してきた家族がどんな生活をしていたかを現地の「思い出博物館」で見ることが出来る。そこは各国から来た移民が住んだ住居、事務所、機械類などを復元している。
初期の移住民は農業が多かったが、その後は、機械工、商業、貿易、理髪店とか各種の分野に入って行った。欧州各地から来た人間が、ここで一つの国、チリ人になるわけだから、いろんな問題があるのは当然だが、それより大きな情熱があったわけだ。
1843年チリ軍はマゼラン海峡に面した南米最南端地区にブルネス砦を建設して領土の確保を図る。ブルネスはその時のチリ大統領の名前。その少し後、1848年にプンタ・アレアスの町が作られた。
太平洋戦争が始まった時、アルゼンチンは露骨にペルー・ボリビア側に付き、チリと対決する姿勢を見せた。
チリが独立する前のスペイン統治下の地図ではパタゴニアは全土がチリ領土になっているが、これはアルゼンチンから認証されなかった。チリは北の太平洋戦争と同時期に南でアルゼンチンとの戦いを実行できるわけがないと判断し、太平洋戦争の途中1881年にブエノス・アイレスで彼らと領土協定を結ぶ。
北部・中央部と同じくアンデス山脈を境にして東をアルゼンチン、西をチリとすることになった。フエゴ島は両国でほとんど折半することになった。
こうして戦争なしに領土を取り上げられたことになる。そのためチリ側ではパタゴニアはアルゼンチンに盗まれた領土と言われることがある。
フエゴ島だけでなく南米大陸でも、プエルト・ナタレス近郊などややこしい国境線になっているのは、この時の会議の結果と言われる。
アルゼンチン側が、「そこはもう少し俺たちのモノにしてくれないかな」と言い出すと、国境線を微妙に上げたり下げたりしたので・・・これは私の想像だが。
これでも領土問題は終わりにならず、1967年にはアルゼンチンの軍隊がチリ側に発砲する事件が起こり、その継続で1978年に戦争開始の直前とみられる状態になった。オランダの国際法廷に問題を提出すると言うチリ案をアルゼンチンは拒否し、一触即発の状態が続いたが、次のチリ提案、バチカンに仲裁を頼むを彼らが呑んだので、問題をローマ法王の手にゆだねることになった。もちろん、それは領土の大きな変更にはならなかったが、両国がそれを了承したので、戦争は遠のいた。
こうした両国の緊張した関係は継続し、アルゼンチンがイギリスとフォークランド戦争を起こしたとき、ほとんどの南米の国はアルゼンチンを応援したが、チリはイギリスの側に立って、イギリスの戦争の手助けをしている。
19世紀の最後の頃、羊の毛が欧州で人気を呼び、パタゴニアの牧羊業は一大産業になった。これで大富豪になった家族が二つある。ブラウンとメネンデス家だ。その子供が結婚したのでチリのパタゴニアは一家族が制覇することになってしまった。
彼らの生活ぶりがいかにすごかったかはプンタ・アレナスの彼らの家が博物館になっているので自分の目で見ることが出来る。世界最南端の町で、欧州の豪族と同じ暮らしをしていたのがはっきりわかる。別に羨ましいとも思わないが、金があれば世界どこでも豪華な暮らしができるものだ。
また欧州から太平洋に向かうにはマゼラン海峡を通過するのがルートだと確認され、プンタ・アレナスは商業・交通の要所として、名実ともにパタゴニアの中心地になった。
その栄光は1914年にパナマ運河が完成するまで続いた。
その後、船が入港しなくなり街の繁栄は薄れて行った。以前のように、みすぼらしくなったのだが、最近、再度、南米大陸最南端の町として復活しつつある。
チリと隣国アルゼンチンはライバル意識と言おうか、日中韓と似ている対抗意識がある。私がチリに来た頃、アルゼンチンは大国として、小国チリを馬鹿にしていた。そしてアルゼンチンが落ち込むと、今度はチリが落ちぶれた隣国を馬鹿にし始めた。
しかし、それは首都のサンティアゴやブエノス・アイレスでの考え方で、プンタ・アレナスには全くそのような意識はなくアルゼンチン人を同じパタゴニアの隣人・友人と考える。確かに考え方に大きな違いがある。
かなり前のことだが、アルゼンチンが栄えていたころ、プンタ・アレナスなどからアルゼンチン側のパタゴニアに多くの人間が移住している。2代前のアルゼンチン大統領はキヒネルと言ったが、彼はチリ人の親せきを持っていた。

方言について考えると、日本の領土は本当に小さいのに(領土はチリの半分)各地の方言は数え切れないほど多い。しかしチリの場合、南北4000キロ以上あるのに、目立った方言はない。プンタ・アレナスでは、いくつかの単語がサンティアゴと異なっていたが、首都圏から来た私が聞いてもそれほど違和感はない。
現在のパタゴニアの生活を見てみよう。
パタゴニアは風の強いことで知られる。秒速20メートルの風が吹くと身体が飛ばされそうになる。何度も、そんな経験をした。私は体重が軽いので、道路を渡って向こう側へ行くのが怖くなる。木の枝が常に同じ方向に吹く風の影響でまっすぐ横に伸びているのも知られていることだ。
台風はパタゴニアには来ないが、大雨が降って川が氾濫することはある。もちろん、通常と異なって交通が遮断され、日常生活に大きな影響を与える。そんなときは普通の仕事ができないから、代理店の店でクレームタイヤのチェックをしていた。
但し意外と冬の寒さは厳しくない。海流の影響で零度にはなってもマイナス10度まではほとんど下がらない。旭川どころか私が12年住んだ札幌より気温は高い。
チリ最南端の州で、政府は市民の生活を守るため各種の保護策を取っている。誰も住みつかないと隣国の侵略を招きかねないからだ。
例えば、プンタ・アレナスのフリーゾーンだ。チリでは消費税19%がすべての物品に課せられるが、そこのフリーゾーンでは、輸入された商品を無税で購入できる。
タイヤの例では、アルゼンチンのトラック・バス屋がプンタ・アレナスまで来てタイヤを購入し、それを古いタイヤと履き替えて自国に戻ると、安い値段で良いタイヤが手に入り、両国ともに消費税を払わなくてもすむことになる。北部の第1州イキケにもそれはある。
10年くらい前に休暇でそのフエゴ島の最南端の町アルゼンチン領のウシュアイアに行ったことがある。その時は飛行機で渡った。そこでペンションのオーナーと話をする機会があったが、そこでは長くて寒い冬の間、無料のような価格で天然ガスが政府から供給され、寒さに苦しむことは無いとか。
アルゼンチンは社会主義的国民保護の政府の考えが徹底していて、その最南端の町でなくても、電気代は隣国チリ・ウルグアイの10分の1らしい。半分ではない、10分の1。
国が破産するところまで行った理由の一つがこの無駄遣いだ。その政府援助額が大きすぎると現行マクリ大統領は4倍値上げしたところ、国民の反発を受け最高裁で、その値上げが妥当ではないとされたとか。そこで妥当な値上げ幅は2倍かどうか検討中とか。これは今年の話。何しろアルゼンチンは国民の3分の1が貧困層と言われる。
もちろんアルゼンチンの政策はそうした極端なものばかりではない。ウシュアイアにはプロが試合に使えるサッカー場、ラグビ―場がそろっているが、チリのプンタ・アレナスには素人用のグランドしかない。同じ例だが、アルゼンチンではスポーツ全体が世界レベルにあるが、チリではサッカー以外は知られているものはない。
これはスポーツだけでなく文化関連の項目でも同じようなもので、世界文化遺産になったイエズス会の教会の例では、チリのチロエ島のそれは崩壊しそうなのもあるが、アルゼンチンのコルドバでは完璧と思えるメンテナンスがされている。明らかにアルゼンチンの方がレベルが高い。
観光にしても、その時、聞いた話では、南極観光は9割がアルゼンチン経由で、チリ経由はわずか1割とか。チリ政府の観光政策の拙さに憤ったが、さすがにチリもそれを理解して、最近は対等の勝負になっているらしい。つまり南極観光のチャーター便や豪華客船はウシュアイアからだけでなく、プンタ・アレナスからも出発している。調べてみると、最近、豪華観光船がチリ側に来るようになったのは港湾使用料を下げたからだと言われる。アルゼンチンがそれまで安すぎたのか?
もちろんチャーター機を南極に飛ばす会社設立など新規の投資があったのは当然だ。
パタゴニアの話にはそれることだが、こうしたチリと隣国アルゼンチンの比較も面白い。
アルゼンチンは国全体の85%の石油・天然ガスを自国のパタゴニアで生産している。もちろん、同じようにチリ側のパタゴニアでも鉱産物が存在するわけだが、チリの場合、石油生産はアルゼンチンと違って国内消費量のわずか3.5%で、ほとんど全部を輸入に頼っている。
プンタ・アレナス近くに石炭鉱山ペケットが開発された。1987年から2003年まで大規模に稼働した。今まで小規模の鉱山はあったが、大型の120トントラックを導入した鉱山は始めて。私は地区の代理店と一緒にそこを訪問、タイヤの契約に成功。その後、オペレーションを見るためたびたび訪問している。その頃の出張報告書はまだある。
その鉱山の横にペンギンの巣があったので、鉱山訪問後に、毎回ペンギンに挨拶に行った。代理店の人は又ですかと嫌な顔をしたが、半時間だけお願いしますと押し切った。
そのオトウェイの生息地には現在はほとんどペンギンはいないが、マグダレナ島にはあふれるくらいのペンギンが生息している。
さてフエゴ島にも鉱山が見つかる。しかしその鉱山の開発を認めると自然破壊が進むと反対グループがサンティアゴで大きな声を上げ始める。パタゴニア観光が現在ほど進んでいなかった当時、小さな石炭鉱山でも地域の開発・労働者の雇用は大きなインパクトになるわけで、自然保護の大事さは理解できるが、私はその鉱山の開始を願った。が、最終的には失敗に終わる。
今年の初めにプエルト・ナタレスに行った時、町のすぐ近くにオープン・ピットの鉱山を見た。その鉱山の開発が観光(町の主要産業)の邪魔にならないかもめているとか。 2014年に政府はパタゴニア水力発電ダムの建設許可を出さなかった。
その現地のタイヤ代理店には深い感慨がある。年に2,3度、プンタ・アレナスの同社で商談を実施。そのあとユーザーを訪問し、市場調査、クレーム処理、販売援助となるわけだが、年を重ねるにつれ友情が大きくなり、彼らの助けでパタゴニアを知ることができた。
プンタ・アレナスの街の正面はフエゴ島だが、オーナーの車に乗ってフェリーでその島に渡ったことがある。
私がウシュアイアに行った時はプンタ・アレナスから飛行機に乗ったが、バスでもそのルートを旅することが出来る。プンタ・アレアス近くの港からフェリ-でフエゴ島に渡り、そのあとバスで半日かかってウシュアイアに到着する。
チリ領のフェゴ島には小さな村落が幾つかあるが、昔からの自然がそのまま残されていると言う感じ。そのオーナーは魚釣りが好きで、島で釣りを楽しんでいる。天然マスが釣れるとか。
さてプンタ・アレナスとパタゴニア観光の中心地プエルト・ナタレスは車で3時間ほどの距離だ。途中でアルパカに似たグアナコ、ダチョウの類のニャンドゥなどの野生動物を見ることが出来る。観光が進んだ現在は毎日数社のバス会社が頻繁にバスを出しているが、昔は一日に午前・午後と二便しかなかった。
まるでクスコとマチュピチュの汽車の話と同じだ。私がクスコにいた40年前は、クスコから観光列車が毎日一便、同じく一般市民用が一便だったが、今では複数の会社が多くの汽車を出している。つまり観光が進むと地域社会に大きな影響を与えると言うことが分かる。

バスの便数が少ないので、タイヤの消費量も少ないから、商売でそこまで行く必要はなかったが、ルートを見てみましょうと、わざわざ向こうまで行かせてくれた。せっかくここまで来たのだからトーレス・デル・パイネでも見ましょうか・・・。
最近はプンタ・アレナスだけでなくプエルト・ナタレス空港を利用することも増えている。                      
冬には観光客はほとんど来ないが、ある時、スキー場に行きましょうかと誘われる。その頃、スキー場は週末と祝日だけだったが、町の名士の代理店オーナ―が頼むと平日でもリフトが動き、全く他のスキー客は誰もいないところで滑ることが出来た。
「世界でここだけです。海を見ながらスキーができるのは」とコメントされたので、 「いえ、そんなことは無いです。北海道にもありますよ」と返答するとがっかりしていた。        
パタゴニアの有名料理は魚貝類、エビやカニとか、それにアサード(焼肉)だ。パタゴニアではサンティアゴと違って羊の肉を食べることが多い。北海道に似ている。
私は代理店オーナーの家に招待され、そういった料理を堪能させてもらった。
仕事がグングン伸びて、その代理店オーナ―夫妻は日本に招待されたが、その旅の随伴は私だった。オーナーはフランス系の人だった。彼は、今は亡くなり、息子がその店を引き継いでいる。
私はこうした長い会社員生活を終え、現在の通訳・ガイドの仕事に入ったわけだ。
約35年と長い間、パタゴニアを見て来たが、最近の街の発展はどうだろうか。
今年の始め、プンタ・アレナスの町を二日間、自由に歩き回れる時間を持ったが、海岸沿いの道をかなり遠いところまでマラソン練習を兼ねて走った。そしてフリーゾーンに入り、その代理店を訪問して、店主と話し合いもしてきた。その地区のレストランで食事をし、さらに近くの博物館も回った。
市民の暮らしが落ち着いていることが確認できた。サンティアゴのような貧民街が無い、乞食のような物乞いも見かけない。人々の様子が、大げさかもしれないが、みんな中流に見えた。この報告書を書いた後に、政府の発表で、「貧困家庭の割合が昨年はチリ全体で前年より少なくなった。その中で貧困層が最も少ないのは第12州です」とあった。旧市街の後ろに新市街が出来ているが、高層のマンションも建っており、勢いがあることが分かる。やっぱりプンタ・アレナスは夏季が中心とはいえ、観光ビジネスをうまく利用している。
ちなみに、プンタ・アレナスは石炭の鉱山、漁業、それに観光が主要な産業になっている。

パタゴニアでは野菜・果物がほとんど作れないので、それらは遠いチリ本土から運ばれる。つまり運送コストの分だけ値段が高い。半分腐ったようなバナナが売られているのは無理もない。昔はそうだった。しかし現在、スーパーマケットに入ってみると他の都市と変わらない品揃えだった。値段もそれほど高くはなかった。昔と違うと言うことがよくわかる。さらに街を歩くと新車の数が多いと言うことも分かる。これは税金が安いと言う点に関連するが。

さてこの第12州には州の旗、州旗がある。土地と星を表したデザインだ。この旗がチリの国旗と同じくらい頻繁に飾られている。
ここはチリから独立したいと言う人間が多いと言われる。第9州のマプチェの独立欲とは異なるだろうが、中央政府を歓迎しないと言う雰囲気はある。まさか隣のアルゼンチンと組んでパタゴニア国を夢見ているのではないだろうか。
結論としてチリのパタゴニアは進歩している。
私がパタゴニアの観光で興味があると言えるのは二つある。
先ず、マゼラン海峡に沿って ブルネス砦に向かう道だ。マゼラン海峡を見ながらの車の旅は、自分は世界最南端にいると言う感慨を与えてくれる。その道は昔と違って全部舗装されている。
砦の近くに塔が立っている。それには、「この地点はチリの中央部です」と記されている。誰も理解できないと思うが、聞いてみるとアリカから南極までのチリ領土に直線を引くとここがちょうど中心になるとか。ジョークに思えるがどうかな?
もちろん、世界に自分たちの言い分を認めさせようとするチリ政府の意気込みだ。同じようにイギリスは南米にフォークランドを持っているから、南米国の一つとして南極の領土を主張している。
それから好きなのはグレイ湖の側にあるホテルのレストランで食べる昼食だ。食事のことを言っているのではない、その風景だ。
今まで、フランス、スイスでアルプスを見、ネパールでヒマラヤを見て来た。南米ではアルゼンチンのアコンカグア、チリのオホス・デル・サラドと歩いている。最後の山は登頂を狙って登ったが失敗した。
それらの経験をした後で、このグレイ湖ホテルからトーレス・デル・パイネを見ながら食べる食事が世界最高ではないかと考えるのだ。本当に目の前の山々が輝いて見える。
最後にトーレススペイン語で(複数の)塔、パイネと言う言葉はテウェルチェの言葉で「青い」を意味するとか。この場合は3本の青い塔になる。


以上