チリの風 番外編 小説「情熱」 その4:第9章~第10章 完

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第9章

どこで聞いたのか、フェナンドが真っ先に来た。
「おっ、燃えてるな」
アルベルトは荷物を片付け始めていた。
「目がギンギンだぜ。そうでなくっちゃ。俺はもう腐った魚のような眼の人間ばかり見ているから、お前の眼を見るだけで幸せになるぜ。いよいよやるんだな。すごいじゃないか。お前は全くジュリアン・ソレルだよ」
フェルナンドは一気にまくし立てた。アルベルトは苦笑しながら答えた。
「ジュリアン・ソレルとは良かったな。それで彼の真似をして赤いセーターに黒いズボンなのかい?」 
ジュリアン。ソレルはフランスの小説「赤と黒」の主人公で下層階級の出身だが、上のクラスを目指して駆け上っていく。
「冗談きついぜ。俺だって本くらい読む。チンピラの中ではインテリと言われている。いや、そんなことより何か頼みたいことはないか?何でもしてやるぜ」
フェルナンドはまるで自分がアルベルトをそそのかしたかのように、彼の出発をドキドキしながら見ていた。

この前、村に戻った時、部屋の片隅に歴史の本とか、アプラの機関紙が置かれていたのをちらっと見た。それで、自分にはもう不要なランプをどうにかして兄の所に届けてたいと思っていたから、アルベルトはそれにすぐに反応した。
「兄ちゃんの所に、この灯油ランプを持って行ってくれないか?これさえあれば、彼は夜にゆっくり本が読めるもんな」
「お安い御用さ。すぐに持っていくよ」

何人も友人が来て、帰って行ったあと、マリアが入って来た。彼女は泣いていた。フェルナンドはそのときまだいたけど、すぐに立ち上がった。
「フェルナンド、明日、俺が出て行った後、ここに残った荷物は全部君のものだ。どうとでも処分してくれ。頼んだよ」
「分かった。元気で行ってくれ。いつかお前の噂がリマから流れてくるのを楽しみにしているぜ」
アルベルトとフェルナンドはしっかり抱き合った。

フェルナンドがマリアにウィンクして出て行ったのをアルベルトは気づかなかった。フェルナンドが行ってしまってもマリアは泣いていた。
「マリア、こっちにおいでよ」
アルベルトはマリアをベッドの隅に座らせた。
しかし今、謝るべきか、彼女を励ますべきか、それともなんか釈明すべきか分からなかった。出発の喜びを言う時ではないとは分かっていた。
言葉の選択をしているだけで時間がたっていく。
会話はマリアから始まった。
「行かないで、アルベルト。行かないで。もう一度考えて。もう一日待って。あなたは浮かされている。だからもう一日待って」
「できないな。マリア。明日なんだ」
「お願い、行かないで」
マリアはまだ少し泣きながら話をした。同じことを繰り返した。
「止めてくれ、マリア。お願いだ。行かせてくれ。俺は行きたいんだ。ダメだったらあっさり戻って来るよ。今みたいに。一日で戻ってくるかもしれない、寂しいって言って。その時は笑わないでくれるかな。でも、いいだろ、行ってきたんだから。本人の気が済めばそれで十分」
自分の言葉に乗せられてアルベルトは話し続ける、
「そんなんじゃないわ。もうあなたは自分を失っている。ただしゃべっているだけよ」
マリアは泣くのを止めてアルベルトを見つめた。
「あなたはもうここには戻ってこない。私の所に戻ってこない。あなたは・・・」
言葉の切れないうちにアルベルトは両手でマリアの顔を包んだ、二人は黙って目を見つめあった。そのまま数分経った。
すべての空気が沈黙した。
次の一瞬、アルベルトは「行く」、マリアは「行かないで」と叫んだ。
マリアはアルベルトにしがみ付いて泣き始めた。その勢いで二人はベッドに倒れこんだ。
マリアはアルベルトの胸の中で泣きじゃくった。
「どうしても?ねぇ、アルベルト、どうしても?悪かったわ、叫んだりして。もう泣かないわ。でも今晩、遅くまでここにいても良い?帰りたくないの」
「いいけど、叱られないかい?」
「いいの」 
ベッドに並んで横になって話が続いた。

最初に会った頃の話から始まったが、
「もう5年もたったんだね」とアルベルト。
「あなたも随分、大人になったわ」マリアが応える。
その次に二人に共通の友人の話になった。
「ところでコーヒー飲むかい?」「ええ、お願い」
クスコの近くのキジャバンバでコーヒーが取れるので、ここではおいしいコーヒーが飲める。
「ねぇ,アルベルト。フェルナンドは良い友だち?」
「そうだよ、どうして?」
[私,あの人嫌いよ。ずっと前、あの人、私に付きまとっていたことがあるの」
「本当?知らなかった」
「私の家の所に毎晩来てたの。その事で、私の父にすごく文句を言われたので、諦めたみたいだけど、それを逆恨みしたの。私があなたを好きなことを知っているので、あなたの事務所のテレサさんに近づいていろいろ言ったのよ」
「えっ、何だって」
突然、テレサの名前が出たのでアルベルトは焦った。
「びっくりした?フェルナンドがテレサさんに、アルベルトはあなたに気があるから、ちょっとからかってみな。小僧っ子だけど、からかうと面白いぜ。と言ったのよ」
アルベルトはもうコーヒーどころではなく顔色が変わった。
「あなたはその通り、あの人に振り回されたわ」
アルベルトはしばらく下を向いていたが、「許してくれ」とつぶやいた。
遅すぎるか、こんなことになるとは,と自責の念があふれた。
マリアはしっかりとした口調で言った。
「今日と言う日はこれからの人生の最初の日と言う諺があるわ。だから決して遅すぎはしない。もう一度考えて。あと一日だけ出発を送らせて」
「頼むよ、もう繰り返さないでくれ。君は僕をそんなに愛してくれている。なのに僕は君に胸が張り裂けるほどの苦しみしか上げられないんだ。それが僕なんだ。僕の人生なんだ」

二人は言葉を失ったまま抱き合った。
長い時間がたってからアルベルトが口を開いた。
「ねぇ、マリア。ずっと前にサクサワマンの遺跡の後ろの丘に登った時、人生は風だっ
て話し合ったよね。確かあの時は,話が途中までになってしまったけど、あの話をもう一度してよ。なんだか、君の意見が聞きたくなった」
「大したことはないわ。いつかふと思ったの。人生は風だって。どこから吹いてくるのか、どこへ行くのか分からないのが風でしょう。人生と同じだわ。それに風は動いているわね、止まることなく。強くまた弱く。そして止まった時が風の終わりよ」
「人生の終わりかい?」
「かもしれない。そしてまた新しい風が生まれる。風は自由、どこへでも吹いていく。それが人生じゃない?」
「でも、マリア、僕には君はずいぶん達観しているように思えるな。じゃ、リマに行くんだって喚いている僕は見苦しいだろう?」
「そんなことないわ。あなたの夢って素敵よ。風に行き止まりなんかないわ。回れ右っていうのはあるかもしれないけど」
「風みたいにいつも無色でいられると言いな。だんだん薄汚れていくって考えると死にたくなる」
「年の事?だめよ、本当に風なら右や左に旋風を巻いても、後悔とか後ろめたさ、そして嘘・残念とか諦め・・・そんな感情が入る余地はないのよ。それできっとうまく行くはず」
「ありがとう、勇気が湧いて来たよ。でも、さっきはずいぶん、僕がリマに行くのに反対していたのに」
「今でもそうよ。離れたくないから、それだけよ」
「じゃ、リマに一緒に行かないかい?今でなくても、しばらくしてからでも」
「だめよ、アルベルト。私はここでしか生きていけない。クスコの人間よ。もう話は散々聞かされているわ。リマに出て行った人の話をね。私たちインディオは高地のここが性に会っているのよ。低地のあんなごみごみした所で、ケチュア語の全然分からない人と一緒に住んでいけないわ。外国よ、私にとっては」
「僕たち、どうなるのかな?また会えるよね」
マリアが答えないので再度口を開きアルベルトは言った。
「だって風だったら、きっと巡り合えるよ」
「・・・・・」

アルベルトは心の不安を抑えようと、一方的に話をしたが、マリアはアルベルトの肩に顔をうずめていた。
自分はマリアを愛している。彼女と人生を共有したい。これからもずっと。じゃ、どうしてこんな風に別れてしまうのか。そう考える自分とリマに行こうとする自分は何が違うのか。

「愛しているわ。今日でもう会えなくても」
マリアの最後の言葉だった。アルベルトも自分の言葉が全く意味をなくしていることに気づき愚かなおしゃべりを止めた。
マリアとアルベルトの二つの風は、高く低くいつまでも走り続けた。
マリアが家に帰るまで。

第10章

次の日、 アルベルトは11時半のリマ行き最終便に乗った。
以前、自分が働いていた店を遠くから見るのは不思議な気がした。搭乗手続きをし荷物を預けてから、その土産物屋店の地区に向かった。マリアに挨拶をするためだ。この旅は二人にとって、ほんの数か月なのか、永遠の別れになるのか分からないが。

マリアは昨晩、彼と別れてから、もう彼にリマに行かないでと言うのは止めると決めた。その頼みは現在の彼には意味をなさないからだ。彼がリマで成功するかどうかわからない。さらにそのままリマに住み着くのかもわからない。しかし彼女の心の底には。リマでの成功の是非にかかわらず、彼はクスコに戻ってくる。そして私の所に来ると信じたのだった。
二人は涙をにじませた目で見つめあい、ほとんど言葉を交わすこともなく最後に抱き合った。

彼は飛行機に乗るのは初めてだった。窓から下にクスコを見ると、自分はそこから離れていくと言う不思議な感覚を持った。今までの歴史はこうして消えていくのだろうかと不安もあった。     
アンデスの山を越えると平野になり、リマが近づく。

飛行機を降りて荷物を受け取り、バス乗り場に急いだ。行先は決まっている。クスコ旅行社のリマ本店に宿泊所を照会したら、大学生が入る寮を教えてくれた。すぐにその提案を採用し、電話で予約を入れたわけだ。

1時間もするとその場所に着いた。もちろん初めての大都会、初めての地区、初めての経験でドキドキするが、それを自分で手探りで探し当てたと言う喜びは大きい。
そこは1室に2つのベッドがあり、部屋をシェアーすることになっている。トイレは共通で部屋にはない。その他にキッチン・食堂も用意されていた。もちろんアルベルトは気に入って契約をした。彼の計算では仕事がなくても食事を含め3か月は生き延びれるはずだった。
同宿舎のカルロスはその時はいなかった。
夕方彼が戻ってきて、自己紹介を始めた。
「俺は国立サン・マルコス大学で勉強している。(注 その大学は1551年に創立された南米で一番古い大学。そこから野口英世名誉博士号を受領している)もっともアルバイトして生活費を稼ぐ必要があるんだが。お前はクスコから来たんだったらクスコ大学の学生だろうな」
そう言われると自然に回答が出た。
「そうだよ、クスコ大学さ」
その瞬間に頭に大きな打撃が入った。自分を嘘をついている。
次の瞬間に、新しい嘘が出た。
「いや学生だった。政治的活動をしたので退学させられた」と言ってしまった。
嘘を少しでも薄めようとしたのだろうか。
長い会話の後、最後に、この週末にパーティがあるから一緒に行かないかと誘われた。もちろん、快諾した。
ベッドに入ってリマでの最初の夜を過ごすときに、自分の嘘に関して考え始めた。嘘をつくなとするインカの教えを子供の頃から実践してきたのに、それをどうして破ったのか。他の人への見せかけのために。自分の価値が下がったことを感じる。自分も嘘つきペルー人の一人だと。

翌日からアルベルトはリマの街を歩き始めた。先ずはカルロスに教えてもらってバスに乗ってから大学構内に行く道を歩いた。全く違和感はなかった。自分はここで学生として勉強できると感じた。そしてそこの学生食堂で昼食を取った。もちろんクスコのレストランよりずっと安い値段だった。学生向けだから当然だろう。
これで夕食を自分で作れば、当初の予定よりもっと余裕が出てくる。クスコにいるときから、食事を自分で作れるようになっていたのが役に立った。
週末のそのパーティには10数人が集会所に集まり、会費を払ったが、テーブルに置かれた飲み物と軽いスナックを楽しみながら話が弾んだ。大半が大学生だった。いろんな人と話をしたが、アルベルトは全く正常に全員と会話を楽しんだ。インディオと馬鹿にされることはなかった。

その中の一人、カタリーナと話が進み、次は二人で会うことになった。白人の女性とのデートの約束だ。
親父がインディオの男が白人と歩くのは厳しい目で見られると言っていたが、今でもそうなのか、今はかなり緩んでいるのか、経験がないし、知人もいないからわからない。
その日、街の中で会って、二人は公園に向かって歩いた。途中で、まるで今までもそうだったかのように手をつないだ。親父がこれを見たら何と言うだろう。
アルベルトの考えは他の男女のデートと大きく異なっていた。彼女との関係をどう進めるかではなく、彼女と歩くのはどう見られるかと心配していた。もちろん、二人の間では、何をしているか、何をしたいかなど大人になる前の青年が話す通常の話題を楽しんだ。彼女は、「もしカルロスみたいに仕事がしたいなら、父に頼めばすぐに見つかるわよ」と言った。
父の親友が会社を持っていて、そこで人を捜しているからとか。

また新しい風が、しかも迅速に近づいてくる。自分は幸運な人間だとアルベルトは感じた。
クスコの時と同じように、次の日から働き始めた。
すべてが順調に進んでいるように見える。
クスコにいる時よりずっと充実している。希望が自分の手の中にあるのを感じる。

珍しく、週末のリマに雨が降っている。
もちろん山間部のクスコのように雨空が全天を覆うような堂々とした雨ではないが。
同宿のカルロスは1週間、アレキパに向かったので一人になった。
土曜なので仕事はなく、外に出ることもなく部屋の中にいた。アルベルトは表面的には成功しているように見えるが、自分の生活力がいかにもろいものかと言うことをしっかり理解している。
実際、親父は短かったかもしれないが、リマでの生活を自分の手で築いた。
ところが、この自分はそれを嘘で始めてしまった。
クスコ大学の学生だと言ったのがその始まりで、政治的活動をしたので退学させられたと言ってしまった。最後にここで何かを学んでそのうちクスコに戻ると言っている。それは本当だが。

今の会社はカタリーナの父親の縁故で入ったものだから、経歴詐欺で解雇されても何とも言えない。
もっとも仕事の話が出たとき,「私は経歴はないことにして履歴書は出さない。従って見習で採用しほしい」とし、「その後、私の仕事が認められたら正式契約を結んでほしい」と逃げた。
嘘はついたが、それを書いたもので残さないよう狙ったわけだ。

仕事は順調に覚え、うまく行っている。
そこは商社で、仕入れをして販売をする。消費者に売るのではなく小売店に。つまり利益が少ないので大量販売する必要があった。どこから買うか、どこに売るかが最大の課題になる。入社した時の給料は20000円だった。クスコ旅行社の時の給料・チップの合計よりは下がったが、家賃がこっちの方が安いので、実際はそれほど大きな差はない。
入社してすぐに仕事でミスをした。単純なエラーで計算を過ち、収益が実際以上に計上されてしまった。課長の皮肉が心に応えた。

付き合い始めてしばらくしてから、カタリーナが僕に愛していると言った。そうなれば良いと今まで思っていたから、大成功と言えるが、今の自分には荷が重い。
カタリーナの両親はずいぶん親切にしてくれる。今日も昼食に招待し歓迎してくれた。
初めて彼らの家に行ったときは緊張した。白人家族の家に行ったことがなかったからだ。もちろん、少し落ち着てから、インディオの家族とどう違うのか、どうすれば彼らのレベルに自分たちが近づけるのかと考え始めた。カタリーナの父は農林省の役人で、彼女の兄は現在、ペルー南部で就職している。

アルベルトの考えは、以前から考えていたように、教育が両者の間の大きな差になっているというのが結論になった。
義務教育だけでなくその上のクラスに、どうすればもっと多くのインディオの子供を送れるかと言うことになる。無料教育の他に国がその子供に奨学金を出すのが一番、簡単で有効な方策と考えられた。

ところで、何回か招待されてから、カタリーナの両親から、二人がこれからも仲良く付き合って、最終目標まで行ければよいのにと、まるで僕たちの結婚を認めていると言うような発言もあった。つまり白人とインディオの間に飛び越せない溝は無いと言うことが確認されたわけだ。村で人種問題を何回も話し合ったが、こうしてまた聞きではなく自分自身で、平等は有りうると言うことが分かった。

今の僕が認められているのだから、過去の嘘は気にしないでもいいじゃないかと心のどこかで思っている。もちろんインカの掟からそんな風に逃げているのかもしれない。
しかしクスコにいるときは孤独感とか疎外感を味わったことはなかったのに、ここに来て最近随分寂しく感じる。こんなに人が周りにたくさんいるのに。それは自分の心の問題から来るのだろう。

クスコを出て随分たった。
クスコの思い出が、こんなにも自分に染みついて消えないとは思っていなかった。
あんな子供頃の思い出が、頭の中に大きなスペースを占めている。その頃の自分なんて何の価値もないとさえ思っていたのに。今となっては懐かしくてたまらない。
もちろん、マリアと過ごした二人の時間が替えがたい値打ちを持っている。そのためリマにいる自分は人生を楽しんでいるのか、無駄に過ごしているのかはっきりしない。

いつものメンバーで、カタリーナを含め6名でワラスの方に週末キャンプに行くことになった。彼女は時々、インディオがいなければペルーはもっと発展するのにと言った類いの発言をする。
その週末のキャンプは無事に終わり、宿舎に戻って来た。
違う週末に、ディスコに行った。カタリーナたちははしゃぎまくる。金持ちたちのいやらしさが我慢できない。
もう人生が終わったと言う気がすることがある。もう何だか、世界をみんな見てしまった気がすることがある。
21歳の自分が世界を見終えるなんてありえないが、31歳の人や41歳の人はどう言うだろう。でも、これから先の10年・20年で自分が何をできるか考えたら、もうこれ以上、付け加えることはないような気がする。
純粋さの替わりに狡猾さ、恥じらいの替わりに傲慢さ、神々しさの替わりに厚かましさ。醜さが自分についていくのが目に見えるようだ。リマに来てなにを学んだのか。何をやったのか。

仕事の話では、彼の経営改善案が取り上げられた。在庫管理の徹底と人員の適正配置が重要とした。それに季節的な労働量の変化を、ただ労働者の増減と言うように安易に考えず、仕事量の平均化を図り、労働者を定着させ、質を向上させるべきとした。
カタリーナの父親も随分ほめてくれた。

カタリーナと二人でいるのが難しい。
カタリーナと付き合い始めてかなりになるが、本当に彼女を愛しているのだろうかと思う。燃え上がる喜びなんか感じたことはない、彼女が白人だから、最初デートをしたときはうれしかった。その頃を思い出すと逆に惨めな気になる。クスコ旅行社でテレサに憧れたことがあったが、カタリーナと恋愛関係になっても嬉しいとか満ち足りたと言う気持ちがしない。

一人でいると耐え難い、何もする気にならないのだが、その癖、何かしなくてはと言う思いにとらわれる。

彼女と別れるのは簡単だが、それはこの仕事を止めることにつながるだろう。カタリーナの父親が私のことを調べれば、嘘がすべてバレるだろうから。
しかしそれを避けるために彼女といる、彼女の恋人になると言うのは耐え難い。
もちろん、考えられるのは貯めた貯金をすべて持ってクスコに戻り、そこで仕事を始めることだ。もちろんマリアに会えるだろう。今は時々、手紙のやり取りをしているが、電話で話したことはほとんどない。フェルナンドもリマまでは情報網がないから、ここで自分に起こっていることを把握はしていないだろう。クスコへは手紙が送れるが、その奥の村には郵便システムがなく、親には手紙が書けない。

営業がうまく進み、安定した会社経営が続いてる。つまり現行の経営方針は正解と言うことになる。そしてそれをいかに改善していくかが次の課題になる。
アルベルトは履歴書も書かず、見習で入社したが、その後、順調に自分のいる場所を確保していった。中小企業だから、そのまま行くと係長・課長・部長に進むだろうと思われた。
カタリーナの父がそれを教えてくれる。

しかし思いもかけぬところで、破綻が入った。
ある日、社長のマルチネスが彼を呼んだ。
「アルベルト君。君は毎日良く働いている。その毎日の努力が積み重なって実績となっている。他の誰にもまして会社に貢献しているのは明白だ。そこで君を昇進させようと考える。君は入社した時は2万円の給料だった。1年後に昇給して2.5万円になった。そして今回、まだ若いから部長は無理だが、課長なら大丈夫だろう。明日から君を本社の課長にしたい。給料も上がるし、役職手当がつく。つまり課長の給料は合計5万円になる。しかし、その手続きをするために君の履歴書が必要だ。すぐに用意して明日、総務の方に渡してくれないか、頼んだぞ」

一晩、ほとんど眠らないで考えた。嘘を確認するか、嘘は止めて正直な自分に戻るかだ。
課長で5万円なら、部長ならもっと上がるだろう。この会社が発展すれば、自分の将来は完璧になる。しかし嘘をついてその地位を確保するのは、インカとして認められる・許されることだろうか。
親父は何と言う?「アルベルト、そこから戻ってこい」だろうな。

母ちゃんや姉ちゃんの死を忘れられない自分はこんな虚偽の人生を楽しめるはずがない。じゃ何故、今までここにいたのだと言われれば、面子をなくすが、こうした局面で、それを忘れて嘘つきを続けることは不可能だ。

ここから逃げ出すのではなく、社長とカタリーナの父親に正直に頭を下げよう。それから後始末をしてきれいに辞めよう。荷物をまとめてクスコに帰るのだ。
今までの自分を見れば、仕事はどこからか回ってくるのは間違いないだろう。

翌朝、社長室でマルチネス社長と向かい合った。
「アルベルト、もう履歴書は総務部に提出したかい?」
「実は、その件でお話しさせてもらいたいのですが」
社長は怪訝な顔をする。全く何を話すのか想像できないからだ。
「私は嘘をついていました」
アルベルトは言い訳ををするのではなく、淡々と真実を語った。
山の中に住んでいた時期から、クスコに移って、実施した3つの仕事を語った。そこを出て
リマに来たこと。そこでカタリーナに知り合う。彼女の父親の助けで、この会社に
入れたこと。
つまり、学歴に関しては小学校の卒業だけで、その上の学校には全く関係していない。
自分が言ってきた学歴はすべて嘘でしたと結んだ。
ただクスコの3社で働いたので、その経験が生かされてここでの実績になったとした。

マルチネスは驚いて口を開けたままボケっとしてしまった。

「よし、出て行きなさい」とだけアルベルトに言った。
「幹部職員会議をして結論を出す。君はこの事務所に残っているように」
そして上級社員を緊急招集した。

アルベルトは決心しているから、会議がどう動こうと驚きはしない。しかし、ここを逃げ出そうとも思っていない。ちゃんと解雇を宣言されてから、この事務所から出て行こう。それが彼の決心だった。

この段階で彼は結論を出していた。早急にクスコに戻る。生活費を稼ぐため、民芸品の店を開く、空港か市内に。費用と所持金を計算しながら。そこで助手としてマリアに働いてもらう。
私生活では彼女と結婚する。親父が言ったように愛はカネでは買えない。
しかし、ここに新しい局面が入る。それは政治への参加だ。確かにキューバのような軍事革命を考えることはしない。しかしインディオを保護、援助する組織としての政党に入る。もしくは新しい党を作る。そしてペルーの中にしっかりした足場を築きたい。左翼でも右翼でもない、インカ党だ。もう2度と学歴の嘘はつかない。小学校卒で、皆さんのために働きたいとする。有名人にも権力者にもなりたくないが、他の人を助ける仕事を一生続けたい。
もちろんクスコ・リマでの仕事の経験は大きな基礎として使えるだろう。

会社の結論を待つ1時間半の間でここまで考えをまとめた。

マルチネスからお呼びが入った。
「会議室に来てくれ」
課長職以上の6名がそこにいた。明るい顔をしたのは一人もいなかった。逆に顔が引きつっているとさえアルベルトには思えた。
「結論を言う。君は虚偽の情報を使用して入社した。従ってそれが明白になった今日で、本社の職から外れる。ただし、将来の可能性として君とのコンタクトは残しておきたい。君の虚偽の履歴ははっきりしたが、逆に君の今日まで見せてきた仕事ぶり・能力はここで働くのに十分な価値がある。
じゃ何故、解雇するのだと言われそうだが、詐称使用は認められない事が第1だからだ。
しかし、君の能力を知ったので、その真実の資格で、つまり小学卒として君を再度、雇用することは考えられる。それは当社がクスコに支店を出す時、そこで働けばどうだろうとするものだ。いつからと言う細かいことはまだ決まっていない。しかしいつかの段階で、それが実行されるのは間違いない。だからこそ、君とコンタクトを残しておきたいと言うわけだ。
君の方から時々、様子を知らせる手紙を送ってくれないか、それは私たちにとって重要な情報になるだろう。
こういう条件から、今月分の給料は全額払う、それから1年で1か月として2年分の退職金を支払う。
さらに将来のコンタクトの費用として、もう1か月分の特別ボーナスを出す。
これが今日の会議の結論だ」

また新しい風が吹いた。アルベルトにとってこの結論は、会社を首になったのか転勤になったのか分からないほど良いニュースだった。
リマを去ってクスコに戻る作業が始まった。

カタリーナとその両親にコンタクトする。その夜、彼らの家を訪問した。
先ず、長い間の三人の援助、暖かい交流を感謝した。正直に、自分のついた嘘から退職することになり、故郷のクスコに戻ることになったと告げた。
直接は言わなかったが、カタリーナとの愛はここで終わる。カタリーナと一緒になりたいから新しい仕事をリマで探す気はないし、彼女を連れてクスコに戻る気もない。
このニュースを聞いた三人にはショックだったが、大きな問題はなかった。マリアが泣き叫んだのとは全く異なり、カタリーナは軽くお別れのキスをしただけだった。父親は彼を抱きしめ、君は優秀な人間だとほめる言葉を送った。母親はあなたのことは忘れられないでしょうと優しく挨拶した。     
アルベルトは彼ら三人に会わなければ、リマでの生活は大きく違っていたことを理解していた。従って、今日の挨拶・お礼は口先ではなく、心の底からの表現だった。彼らに会えて幸運だった。アルベルトは彼らの家を出て自分の住居に戻る。

思い出す、クスコを出た最後の日の混乱の様子を。しかし、今は違う。前回と同じように毎日の生活を全て新しくするのだが、クスコでの新生活では安心と安定が予想される。
何をするか、何が出来るか、何を望むかはちゃんと頭の中に入っている。
先ず飛行場でマリアに会って、自分の情況・考えを伝える。もし彼女が自分を受け入れてくれるなら、結婚したいと告げる。
住居は以前住んでいたところにしたい。そこが無理なら、その近くの部屋を捜す。
そしてクスコで住む場所が決まったら、商売のための店舗を捜す。商品の仕入れとか販売は経験があるから全く心配はない。
もちろん、リマの商社とコンタクトを続け、彼らがクスコ支店を設けるときは、土産物店とは別に、その支店長として働くことになるだろう。
それから興味があるのはインカ党で、既存のグループもしくは政党とコンタクトし、インディオ保護・援助のアイデアを実行したい。それがうまく行かなければ新グループ設立を図りたい。可能なら県会議員や国会議員になって仲間のインディオを助けたい。
もっと小さなことだが、クスコ周辺の学校への援助を即時提案したい。例えば、先生の数を増やす、生徒に給食を用意するなどだ。もちろん、奨学金もそのアイデアの一つになるだろう。  
話は変わるが、兄とは今までコンタクトがなかったが、クスコに戻った自分の計画に彼がどのように関わってくれるか楽しみだ。その時は、父は村で一人暮らしになるのかな?それともクスコに出てきて、兄の場合と同じく自分の事業・計画に参加してくれるかな?

さぁ、クスコで、どんな風がアルベルトを待っているだろう。彼はリマの空港でクスコ行きの便を待っている。