チリの風 番外編 小説「情熱」 その3:第7章~第8章

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第7章

アルツロ親子は自分たちの家に戻った。火を起こし、先ず茶を入れる。飲み終わると、パチパチと火の音があたりの重い静けさを、時々破るが、それ以外は咳一つない。
「なんて言う人生だったのだ」弟が口を切った。
「貧しい中で働き、惨めに死んでいくなんて。なんて言う人生だったのだ。俺は姉ちゃんが好きだった。随分と優しくしてくれた。兄ちゃん、そうだろ。厳しい毎日でも愚痴一つこぼさず・・・何てことだ。一体、俺たちの神様はどこにいるんだ。くそったれが」
「そんな風に言うんじゃない。これも神の思し召しだよ。決められたことだよ。何事も悪く言ってはいけない。誰もが、それぞれの力を出して生きているんだ。そう、成るようにしか成らないんだ」
父親は飲み終えたコップを手にして、つぶやくような声で話した。
「何で、俺たちが貧乏で、山の上のこんなところに住んで、町のあいつらに見下されていなければいけないんだよ。人間は平等とか、生まれながらに自由だとか、学校でも教会でも聞いたけどな。いったいこの現実はどうなんだ。兄ちゃん、俺は今、働いている。そして金を貯めている。あいつらに負けないように。遊びになんか行かないよ。勉強ばっかりだ。俺はもうインディオと馬鹿にされながら生活するなんて嫌だよ。俺はいつかリマに行く。事業を起こしたいんだ。最初は小さな商売でもね。俺は成功したい。他人を蹴落としてでも上昇したいんだ。そんなことを本気で思っている。いったん気を抜くと、今の暮らしに満足してしまう。するともう絶対動けない。貧乏に慣れちゃうと、意欲まで無くなってしまう」
長い間、はけ口を見いだせなかったアルベルトが一気にぶちまける。
しかし、それが許されるのは家庭・肉親と言う暖かさの中にいるからだが、アルベルトはそこまで気が付かなかった。
兄はとうとう最後まで一言も口をきかず炎を見つめているだけだった。
アルベルトはふとそれに気づいて言った。
「兄ちゃん、どうして黙っているんだ。馬鹿になったのか?」言い終わって拙いことを言ったと思ったが、元には戻されない。
アルバロは父と同じように低い声で、しかし力強く話し始めた。
アリシアの事を考えていたんだ。アリシアは美しかった。お前が今、着ているようなきれいな服は着たことがなかったが、それでもやっぱり美しかった。お前のような暮らしはおくれなかったが、彼女はそれでも幸せだった。しかし、お前が思い煩っているようなことを悩むことはなかっただろう。子供の成長を喜び、夫との労働に感謝をしていた。貧乏かどうかは人間の本質ではないんだ」
「それはごまかしさ。そんな風に思って騙され続けてきたんだ。すべてが、あいつらと同じようなレベルになったら、初めてそう言えるんだ。アリシアだって金があって、医者にかかって、もっと良い薬を飲んでいれば死なずにすんだんじゃないか」
アルベルトは突然、泣き出し、もうわめいているような大声でしゃべり続けた。
「公式論や美しい人生論はもう飽きたんだよ。現実はどうなんだ、現実は。田舎のインディオの家に生まれたのと、町の白人の家に生まれたのは運が良かった・悪かったと言うことだけで済まされるのか。もともとここは俺たちインディオの土地ではないか、ペルー人だって、元々のペルー人は俺たちだ。それをスペイン人が来て汚い手を使いやがってインカを滅ぼし、その後のあくどい手口はどうだ。教科書にまともに書けない歴史じゃないか。インディオを奴隷として死ぬまで鉱山で使い、その一方、インディオの女性に自分たちの子供を犬か猫のように生ませていったのだ。それが混血児だろう。
そして、そのスペイン人直系の子孫が、悪者の子孫が、なぜ今も俺たちの上にふんぞり返っているんだ。
おまけに彼らの人殺しは罪にならないが、インディオ の側では逆だ。ツパック・アムルーの場合は反逆罪で死刑になっている。それが頭に来るんだ。都合の良いときは法律だからね。一体白人のあいつらが、ここにいる権利があるのか?」
(注 ツパック・アムルはスペイン人にクスコを占領された後、インカが逃げ込んだビルカバンバを基地にして反スペイン活動を続けたが、最後に逮捕され反逆罪で処刑された。そのビルカバンバへ筆者はクスコから片道三日の厳しい旅の後、到着している)

アルベルトはそう言いながら、突然、ちらっと、テレサの顔が浮かんだ。テレサのためなら奴隷になっても良いかなと思い、一瞬顔が赤らんだが、すぐに頭を振って馬鹿な思い付きを打ち消した。
「兄ちゃん、小学校で手伝っているんだろ?」
「うん、そうだ」
「じゃ、兄ちゃんだって、ちゃんと考えて実行しているんじゃないか。僕だけに、まるで犬が吠えるようにしゃべらせないでくれよ」
そこに来ると突然、アルベルトは声を小さくして話した。
兄がそれに答えた。
「そんなわけじゃないよ、自分は。この国に一番必要なのは教育だと思う。教育が何より遅れているんだ。ペドロ先生は良くやっているけど、子供が40人もいて、全学年が1クラスだからどうしようもない。そこで1,2年のちびに僕がアルファベットを教えているんだ。教科書を読めないようでは生徒じゃないからね」
「それはそうだよ。それで兄ちゃんは子供を反政府にするよう教えているの?」
「何だって、それ?」
「だって、兄ちゃんはアプラ(反政府の政党)だろう?」
アプラの機関紙が家にあったのをチラッと見たからだ。
「その話は今してもしようがないな。僕は子供に正しいものを正しいと判断できるような眼を作ること、それを自由に発表できるような社会を作ることを教えたいのさ」
「出たね。甘っちょろいユートピア思想が。革命はね、ゲバラのようにしなければ駄目なのさ。政府のあいつらときたら、軍隊にばかり給料を払いやがって、自分たちの用心棒にしている。この間だって、クスコの中心地のアルマス広場は、デモ隊を抑えるため軍隊の撃った催涙ガスがひどくて歩けなかったよ。知ってるかい、あの弾一発で5千円もするってことを。軍隊の奴ももったいないと思って撃っているのかな?いや、奴らにユートピア精神なんて無理と言うものさ」
アルベルトはここまでからかったような調子で話してきたが、再度ここで声の様子が変わった。
アリシアの死はね・・・犬死だよ。あんな素晴らしい人間が犬死だよ、兄ちゃん。ヨハネ福音書にあったね、一粒の麦もし落ちて・・・なんて。アリシアはそんな一粒の麦のはずだよ。それなのに・・・」
「お前がそういうだけで、アリシアは一粒の麦になっている」
父のアルツーロは息子の最後の言葉に少し顔をほころばせた。

「腹、減ってないかい?」父親が急に話題を変えていった。そして鍋からスープを皿に取り二人に渡した。
この地方の貧しい家庭は食事と言えば、先ずスープになる。季節によって芋やトウモロコシが入っているが、年中変わらないと言えるほど変化には乏しい。

親父はスープを少し口に入れると話し始めた。
アリシアの死はひどく悲しい。確かにアルベルトの言うように、もし町の病院に入っていれば良くなっていたかもしれない。それが出来なかったのはただ金がなかったからだと言われれば、そうかもしれない。しかし村の人間が町の病院をひどく嫌っているのは、お前も知っている通りだ。ここの人間は・・・」
アルベルトは父親の言葉をさえぎり話し始めようとしたが、一言だけにした。
「非科学的だ」
父親は続けた。「ここの人間は自然治癒力を信じていて、回復をじっと寝て待つ。生薬は信じるが、化学薬品は信じない。だからアリシアは不幸にも若死にしたが、寿命だったんだよ。アルベルト、そう考えてくれ。生死と言うのはやはり決められたもので、逆らえないものと思うよ。ところで・・・」
父親はここでスープをしっかりすすり終えると、一息入れてからまた話し始めた。
「実を言うと、アルバロ、アルベルト、お前たちに今まで詳しいことは話したことがなかったが、今晩は何だかちょうど良い機会のような気がする。実はこの俺も若いころ、アルベルトのように考えたことがあるんだ。で、あのプエルト・マルドナードに金を捜しに行ったんだ。20歳になる前だった。そして金を掘り当てたんだ。掘ったと言うより、川からすくい上げたんだけれど。砂金だった。運があった。勘も良かったんだろう。少しの間にかなりのまとまった砂金を手にしてそれを売った。つまり金を稼ぎ出したんだ。俺のほかにも何人かそういう幸運な奴はいた。ところが彼らはそれを博打・女に使ってしまう。俺はその金で雑貨を購入した。それまで親方衆と言われる奴らが、現金でなく給料払いでその生活必需品を売っていたんだ。もちろん法外な値段さ。通常の3倍とか5倍の値段でだ。そこで俺が適切な値段で売りに出すと、売れた、売れた。
値段はそれまでよりかなり下がったとは言え、俺にとってはぼろい儲けさ。たちまち人がうらやむ金持ちになっていった。そうなれば俺が働く必要はなくなった。荷物を背負って町と労働者の間を売り歩くのは他人にやらせた。俺はリマの良いところに家を買ったよ。
そんな不思議そうな顔をするな。そういう時期が本当にあったのだ。女中を使って結構な暮らしさ。美味しいもの食って遊び呆けていれば金が入ってくる。そうだな、かれこれ2年ちょっと続いたな。競馬にも凝った。大穴当てればどんちゃん騒ぎ。すっかりすってしまえばがっかりして、飲みまくる。もう入ってくる金を全部使ってしまうと言うことよ。それから・・・」
父親は一区切りをつけてから、声を小さくして続けた。
囲炉裏に薪が少なくなったのでアルバロが立ち上がり、薪を持ってくる。
「それから結婚もしたんだ。お前たちの死んだお母さんは俺にとっては2番目の妻だった。いや、実際は一番目の、唯一の妻だったのだが・・・。つまりその頃、アルベルトはどう思っているか知らないが、俺の若い頃は、俺たちインディオが白人の女性と結婚するのは実に目の玉が飛び出すほどの事だったんだ。白人の男がインディオの女性と歩いていても、どうせ妾ぐらいだろうと思われるが、その逆にインディオの男性が白人の女性と歩いていると、下男だろうと思われていた。ところが俺たちの場合、そんなもんすぐにわかる。天地がひっくり返るほどの大事件だ。そこで俺は金で女を買おうとしたんだ。もっともそんな女性だから、当時の白人社会では鼻つまみ者だっただろうが、俺には知ったことではない。とにもかくにも俺たちは結婚した。そいつは再婚だったので教会での挙式はできなかったが、そこらの一流レストランを貸し切って華々しくやったよ。もうパーティのお終いには誰の結婚式か、何があるのかもわからないほどの混乱で、知らないやつが押しかけてきてただ酒を飲んでいった。あとで考えれば、それが破産の第1歩だったよ。
昔はそういうバカ騒ぎが時々あったのさ。
おまけに大福帳的経営の時代が終わって、行商からしっかりした店舗を構えて事業を起こす風に変わっていたのに、その先行投資を怠ったので、商売は先細りになっていった」
父親は実に淡々と話したが、アルバロもアルベルトも初めて聞く父親の話に驚いてしまって口もきけないほどだった。
アルベルトは後でクスコに戻ってから親父はどういうわけか小難しい言葉を使っていたなと思いだした。

「それから半年もするかしないかのうちに、すっかり行き詰まり、借金のかたに品物を置いて、それで終わり。嫁さんも破産した俺の所から逃げてしまった。俺は元のインディオに逆戻りだ。そうなったらリマなんて、あんな冷たい所はない。昨日の友は昨日の友。今日は知っちゃいないと言いやがる。たまには一日1万円も利益を出したことがあるのに、百円の土方の仕事はする気にもなれない。つまり乞食同然の暮らしにまでなってしまった。
落ちるところまで落ちてやれと思ったものの、その惨めさに精神まで腐ってしまいそうだった。うまく言えないが、例えばこんな風だ、寝台にノミがいる。それが分かっているのにそのノミを殺せないんだ。今日やっつけたところで明日また他のどこかから出てくるだろうって。
それから月並みだが、愛は金では買えないことが分かったよ。金があるより、自分を愛してくれる人と一緒にいる方がいいのだ。
そんな時、ありがたいことに俺には故郷があったことを思い出した。サッサと物を畳んで、リマを出て、1週間かかってクスコに戻って来た。そして村について差し出された温かいスープ、貧しいスープだったけどね、それに身体中が震えた。嬉しさで。
これが俺の人生だ。ここで誠実に生きるのだ、その思いが身体中に染み渡った。これで話はおしまいだよ。その後は、お前たちが知っている十年変わらぬここでの生活さ。この土地にしっかりしがみ付いてな。
しかしこれだけは言っておくよ、アルベルト。やっぱり大事なのはその人の暮らしぶりより生き方じゃないかな。外観じゃないんだよ。俺ははっきりそう思う。もっともお前の言うことにも当たっていることはあるけれど」


第8章

次の日、と言うより朝まで話し込んだが、アルベルトは町に戻っていった。数年ぶりに村に戻った日が、姉の臨終の日だったことと、父親の驚異の独白を聞いたことで複雑な気持ちになっていた。
ただ父の様に、自分もやっぱりリマに出て行くことになると言う予感は強くなった。たとえそれがどんな結果になるとしても。彼は良く夢を見たが、次の日の夢では、彼は何故か、この地方で唯一の町クスコを怖がっていた。

旅行社の仕事は、もう彼にとっては難しいものではなく、他のどの社員よりうまくやれると自負していた。いや、時々来るガイドの仕事だって、好評なのは良く分かっていた。観光が終わって客と別れる時の彼らの反応で、今日の自分の仕事がうまく行ったかどうか確認できるのだ。
18歳の誕生日を間近かにした日、このクスコ旅行社に勤め始めて満2年になろうとした日だが、一人の男が事務所に入ってきた。鳥の羽を付けた帽子をかぶった小太りのこの男は、クスコのガイド組合の委員長をしているアレハンドロだった。アレベルトが挨拶しても知らん顔をするか、大儀そうに手を上げるだけなので、あまり彼について良い印象は持っていなかった。その彼がアルベルトの所にやって来て「ちょっと話があるんだが」と切り出した。
「はい、何でしょうか」、
仕事がなく、机に向かっていた彼は直ぐに腰を上げた。
「いや、大したことではないんだが。君はこの1,2年ちょくちょくガイドをしているよね。しかし君はガイドのライセンスを持っていない。そのことでガイド組合の中でクレームが出ているんだ。ここの支店長にも話はしてあるんだが、ライセンスを持たない人間はこれから一切ガイドとして使わないと言うことになったんだ。規則をはっきりさせると言うことだな。で、君にもそれを伝えておくよ」
委員長はそれだけ言うと、返事も聞かずアルベルトの所から離れて行った。既に支店長とは話をしていたのだろう、そのまま事務所から出て行った。
何だって?彼の伝言をかみしめる。収入が減少するのは痛いが、それよりたまにでもガイドをすることは、事務所の仕事よりずっと自分の勉強になる。外国語を覚えると言うだけでなく、人生に影響するのだ、大げさに言えば。
それにしても今まで組合費をちゃんと取っておきながら、今更、急にそんなことを言い出すなんて。でも、しようがない、これに関しては諦めるしかないだろう。

支店長は相変わらず、彼に会うと頑張ってるねと愛想は良いが、肝心なことは何も言ってくれない。ガイドの件に関しても、一言くらい事前に言ってくれてもよさそうだが。
秘書のテレサは、彼女は以前にもましてアルベルトの心をつかんでいたのだが、この事件の後、もっと大変なことがあるかもよとすました顔で言う。いったい何のことかと聞いても、さぁとしか答えない。
彼女はたぶん、24か25歳だろう。年齢は調べればわかることだが、それさえ気恥しくてできない。アルベルトにとってテレサは妖しいまでの美しさで、向こうを向いていた彼女がこっちを向く時に揺れる髪の毛のシルエットの形だけで一日いっぱい甘い思いに浸っていれるほどだった。彼女はアルベルトの自分への気持ちを知っていてそれをからかっていたのだろう。
例えば、少し前のことだが、「次の日曜日、暇がある?だったら私の家のそばに来てみたら?」と言った。アルベルトにすれば誘われたと思って、マリアには日曜日だけど会社の仕事があると言って、朝早くからテレサの家の周りをウロウロした。しかし彼女は家から姿を現さなかった。自分がちょっとそこから離れたときにどこかに出かけたのだろうかと考えたが、何のことはない、その前の晩からテレサは支店長とリマの本店に行っていなかったのだ。本店と言っても日曜日だから、仕事かどうかは分からないけれど。しかしどうしてそんなことを言って揶揄ったのかアルベルトには分からなかった。実はこんなことが以前にもあったのだ。そのたびに彼の誇り高い気持ちは傷つけられマゾヒスティックな心の痛みを感じながら、彼女を憎めなかった。


あと1週間で満2年の勤続になった日、テレサがアルベルトの所に来て腰かけた。彼女は他の人より彼の名前を甘く伸ばして発音した。アルベールトと言う風に。
「来週であなたの契約が切れるわ。また1年契約を伸ばさなくっちゃね」
「どうして1年契約なんですか?あなたもそうなの?ミゲルやパブロもみんなそうですか?もう僕、見習社員から正社員になっても良いのではないですか?支店長はどう言っていますか?」
「あっ、知らなかったの?あなたは見習のままよ」
「どうして僕が見習なの?僕はもう2年も働いているし、支店長だって僕の仕事ぶりは知っているはずです」
「甘いわね、あなた。あなたは学校も出ていないし、ただのインディオでしょう。言葉ができるから重宝して使っているだけよ。だから、いらなくなったらすぐにクビに出来るように1年契約なのよ」
こうまではっきり言われたら、アルベルトでなくても打撃を受けるのは無理はない。相手がテレサでなければ最後まで静かに聞けたかどうか。アルベルトはウーと低く呻き、ヨロヨロと外に出て行った。

11月に入り雨期が始まっていた。ショボショボした雨が軒を叩いていた。ポンチョ姿の人が道を急いでいる。
アルベルトは白雪と言う喫茶店に入った。ここのコーヒーがクスコで一番おいしいと彼は思っていた。肌寒い日に湯気を立てて運ばれてきたコーヒーは旨かった。
店の前に裸足の子供が小銭をねだって立っていた。今の自分は、人のうらやむクスコ旅行社の制服のブレザーに替ズボンを穿いている。そして茶色のブレザーに合わせた茶色の靴。櫛が入ってきれいに撫でつけられた髪の毛。あの子たちとはずいぶん違う。にも拘らず、確かにあの子たちと自分の共通点は多いと感じる。切り離せないものがある。
それはあの子たちの目つきだ。傲慢なのに小心で、狡く生きている。間抜けだけど独立心があり、それでも他人の顔色を窺っている。あれは自分の目つきだ、アルベルトはそう感じる。
コーヒーを飲み終えるとアルベルトは時計を見た。11時だ。まだ間に合う。立ち上がると飛行場に電話した。共同電話でマリアを呼び出す。
「マリア、アルベルトだ。話をしたいことがあるんだ。昼食一緒にしよう。こっちに来る、そっちに行った方が良い?OK, じゃ、こっちで待つよ。いつもの所で1時半ね。チャオ」

事務所に戻ったけれど、その日の午前中はアルベルトには仕事が来なかったようだ。昼からの予定を聞くとテレサは笑っていたけれど何も答えない。私用の質問ではないのだからしっかり答えろと言いたかったが、だらしないことに、何となく自分も笑ってしまう。
自分の机に戻り、雑誌を開いた。
「リマの失業者、史上空前の数に。国家経済のピンチ・・・」いつも同じことが書かれているようだ。今までなら読み過ごしたところだが、その日はなんだか他人事ではない気がしてじっくり読んでしまった。雑誌の文は続く。「犯罪に走る失業者の群れ」「大量の失業者に政府は打つ手なし」「インディオは故郷の田舎に帰すべきだ」
確かに、都会に何かあると夢を見て田舎を出てきた人たちを待っているのは、そんな甘い生活じゃなかったわけだ。
しかし都市問題は何もこのペルーだけではない。大都会への人口の集中は全世界の問題だ。
アルベルトはそれを頭に入れながら、自分はそれでもリマに出て行こうと考えた。
「自分は違う。自分はできる。どんな生活にも耐えられる。決して犯罪者の群れに落ち込んだりしない。時が来れば、他人に言われなくても故郷に戻る。その潮時は分かる。そうまでして都会にしがみつきたいとは思っていない」

昼になり、ランチを取りに、事務所から三々五々と従業員が消えていく。雨は上がっていた。アルマス広場の近くのレストランに入るともうマリアは来ていた。
「早かったね。マリア」
「急いできたからよ」
「仕事の方は?」
「いつもと同じ、いやになっちゃうわ。変化がないんだもの」
「そうは言っても、変化のある仕事なんてどこにでもあるわけはないよ」
「どうしたの、今日は大人っぽいこと言うじゃない」
「そう言うなよ。今日はマジなこと言うんだから」
「いつもマジじゃないの?」
「頼むよ、いじめないで聞いてくれよ」

雨期に入るとトルーチャ(鱒)は取れなくなるので今の内と鱒のフライを二人は注文した。贅沢な料理だったので飲み物とアボガドのサラダがついて二人分で400円だった。今から10年前に市場で食べていた昼食は一人分40円だったのだが。

食事が一段落してアルベルトは口を開いた。
「実は俺、リマに行こうと思っているんだ」
「いや。ダメ」
アルベルトが驚いたほど、ヒステリックな叫び声だった。
マリアは強くはっきりと否定した。
「何をしても良いけど、ここから離れたらだめ。向こうに行ったらあなたの人生は今よりおかしくなる。やめてちょうだい。お願いします」
「落ち着けよ。俺の言うことを聞いてくれ」

アルベルトは幾分早口に事務所で考えたことを話した。
「でも、あなたは具体的に何をどうするのか分かっていないし、この国ではお金より大事な親戚関係も全くない。いつまでも遊んで機会を待つほどお金の余裕もないでしょう。そうしたら今よりずっと悪い条件で働くことになる。そんな生活を続けていれば、今あなたが持っている美しいものも壊されていく。だから、お願い。ここにいて、もう一度考え直してちょうだい」

午後の仕事があるとマリアは興奮した様子を隠せず店を出て行った。
アルベルトはもう一杯コーヒーを頼んだ。雨は上がったけれど、薄暗く濡れそぼった外を見ながら動揺した自分の心を見つめていた。
マリアの言うことに真実があることは感じていたが、自分の決定をすぐに覆すのも癪で、心を暫く宙に浮かしておこうかと、リマ行き計画を中止ではなく延期にする気になって外に出た。
テレサは午後に仕事があるともないとも言わなかったけど、アルベルトは広場近くの事務所に戻った。一段と暗くなった空から、雨が再びゆっくりと降り始めた。これから半年続く雨期に入ったことを告げているようだった。それはゆったりと、しかし力強くクスコの町を包み込んでいった。

テレサ、仕事は?」
テレサはいつものようにタイプした仕事表を自分の机から取り出し彼に渡した。
「はい、これ。マリオット・ホテルにいるアメリカ人のヘンドリックス夫妻とサボイ・ホテルのジャニスツアーのグループの市内観光よ。バスは12番。運転手はハイメ。ガイドはユパンキ。ちゃんと連絡とってね」
「どうして午前中に聞いた時、これを教えてくれなかったの?」
さすがにムッとしてクレームした、
「あなたの事だから、今日の午後から、もう仕事はしたくなくなるかと思ったの」
こういうとテレサはアルベルトにウィンクした。
「あなたは一体、何を言っているんですか?」
「明日のリマ行きの切符、予約してあげようか?75%引きの正社員の特別航空券を」
テレサはまじめな顔に戻ってそう言った。
アルベルトは顔が引きつって何も言えない。
テレサは静かに、しかし彼の顔を強く見つめながら続けた。
「あなたは若くてハンサムだし、才能もある。可能性はあるのよ。どうしてこんな田舎にくすんでいるの?あなたの野心は知っているわよ。どうして今、飛ばないの?チャンスは今よ、飛びなさい。アルベールト」

アルベルトは渡された仕事表をテレサの机の上に置くと、返事もせず事務所から再び雨の降る町に出て行った。
そうだ、今日だ。今日こそ旅立ちの日だ。もう終わりだ。こんな町で自分を駄目にしながら生き延びるのは今日で終わりだ。明日は飛行機に乗ってしまうぞ。
そうだ明日だ、明日。もう一日の余裕もない。焦るな、落ち着け。さて取り合えず、明日出発するために何をする必要があるか考えよう」

アルベルトは興奮で熱病の患者のように真っ赤な顔をして道端でブツブツ言っていた。
先ずクスコ旅行社の件を片付ける。それから明日の航空券だ。それが終わったら荷物を整理して部屋のオーナーに通知をする。それから友だちへの連絡だ、これだけを今から明日までに終えなくっちゃ。急げ。

驚いたことに事務所に戻ると、テレサは一切の手続きを終えていた。今日までの給料を小切手でちゃんと支払ってくれた。そして事務所の中なのに、思い入れたっぷりな情熱的な口づけをアルベルトにした。
「可愛い、アルベールト。さようなら。あなたの事、愛していたわよ」
アルベルトは気の毒なほどの取り乱しで、周りの人には彼が喜んでいるのか悲しんでいるのか分からなかった。
「飛行機は明日のフォーセットの2便。11時半発よ」

部屋に戻ってくるともう疲れ果ててベッドに倒れこんでしまった。
一生でニ度と起こらない劇的な日になった。

(続く)