チリの風 番外編 小説「情熱」 その2:第5章~第6章

(その1:第1章~第4章)peter-fujio.hatenablog.com


第5章

翌朝、クスコ旅行社の事務所に行った。昨日のガイド料金が小切手でもらえた。850円だった。たった2時間の仕事で、チップを入れると1850円。最初に肉屋で働き始めたとき、月給が3000円だったから、その違いは極端だ。とにかく、失業中の今のアルベルトにとってありがたい金だった。
さて新しい仕事を捜しに行こうと、礼を言って立ち上がると、この旅行社主任のリッチーが奥から出てきて、アルベルトを応接間に案内した。
「まぁ、かけなさい。昨日のことは聞いたよ。突然の依頼だったのに良くやってくれたね。いや、ありがとう。ところで、ものは相談だが、その気があれば、うちで働いてみないかい?ガイドの仕事は君にはライセンスがないから無理だけど、事務所の人間として働かないか?今の君の仕事よりやりがいがあると思うけど。給料はチップも多いから、現行の2倍より多くなるのではないかな」
こんなに話がうまく行くとは、ほっぺたを抓って見なければ。アルベルトは昨日、土産物屋の仕事をクビになったのはここで働くためだったのか、と思ったほどだ。もちろん喜んでその申し出を受けることにした。
「今の仕事は大丈夫かな?突然、辞めても」
きっと、売り上げをごまかしたと言われて首になったことが伝わってないわけだ。それが知られた時、どうなるだろう。えっ、どうでも良い。実際、自分がやったことではないから。
「大丈夫です。今日中に話をして、明日からここで働かせていただきます」

その後、具体的な条件に付いて話し合いがあり、契約書にサインした。見習社員で1年ごとの契約をする。給料は月15000円だった。昨日までの土産物屋の仕事と同じ額だ。ただチップの方がそれより多くなるのは、昨日の例で分かっている。つまりもう生活に困ることはないだろう。
正式社員になれば1年のうち1か月を、有給で休むことが出来るらしい。素晴らしいバケーションになりそうだ。
そしてガイドの都合がつかないときは、昨日のようにアルベルトはガイドの仕事をすることになり、その時は正規のガイド料金が別途支払われることになった。
彼の通常の仕事は客の飛行場への送迎、ホテルの出入りの手伝いなどだった。全く異存はない。

次の日から働くことになったので、その日は部屋探しになった。町の中心部を離れて電気・水道のない部屋なら1000円である。今は費用を自分で払わなければならないとはいえ、良い給料がもらえるからもっと良い条件の所に入れそうだ。
7000円で良いところが見つかった。家具はそんなにないけれど、広い部屋でシャワーと台所がついていた。つまり、そこで自分の好きな食事の用意ができる。山の家で毎日食べていたスープのことだ。時間がある時、学校で習った笛のケ-ニャを吹いて楽しむこともできる。
部屋は2階で、大きな窓があったので太陽の光が良く入るのが気に入った。町の中心にも近い。アルベルトにとって初めての自分の部屋になった。フェルナンドの部屋から荷物を引き出し、引っ越しする。次回、フェルナンドが村に遊びに行ったとき、今までの様にアルベルトの父親と兄に、この転職と転居の件を話すだろう。

次の朝、窓から一杯に差し込んでくる太陽の光で目が覚めた。
レースのカーテンを通して入ってくる太陽は山の家にいたときの照り付ける太陽ではなく、洗練されたやさしさを持つそれだった。
清掃の人が道路を掃いていた。いつもと同じ朝だが、アルベルトはそれを外から、上から見ていた。外から見ていたとは、昨日までその中にいた朝を、まるで励ますように見守ったと言うことだ。「自分は他の人間と違う」と言うのではなく、他の人間と手を組んで新しい世界を作っていくのだと考えた。部屋を変えただけで、彼の心意気は大きく変わった。

仕事は最初から順調にいった。朝、事務所に出て指示を受ける。それは第何便でアメリカ人の誰それがリマから来るので、その人をホテルに案内する。そして客のチェックインの手続きを助け、部屋まで連れて行く。あるいはその逆に客をホテルから飛行場に移し搭乗手続きを助ける。遺跡周りをする人にバスや汽車の手配をする。
客は多かったので、仕事をしないで事務所に座っていると言うことはあまり無かった。チップは少額でもほとんど全員がくれるので、一日でかなりの金額になった。
事務所の人間はアルベルトに概して好意的だった。16歳と言う最年少の社員と言うことや、彼がいつも清潔な身なりをしていること、それに他の社員のようにはしゃぎすぎることがないからだろう。逆に、アルベルトの眼には他の社員は一家言もった立派な大人に見えたのだが。

リマに本社があるので、ここはクスコ支店と言うことになる。アルベルトはまだ支店長とは話をしたことがなかったのが残念だった。彼は渋いスーツを身に着け、白髪をオールバックにしている。如才ない笑顔を振りまきながら事務所に入ってくると、すぐに支店長室に消えてしまう。この国一番のサン・マルコス大学の法科を出たそうで、仕事では相当のやり手だと言う評判だった。
どうしてアルベルトが彼と話したがったかと言うと、あまり単純すぎるかもしれないが、入社2日目に彼はアルベルトに声をかけてくれた。
「君が昨日、入社したアルベルト君かい。まじめに働きなさいよ」と言って握手をしてくれた。
あの笑顔は自分に好意を持ってくれている証拠だと感じたからだ。

その支店長について色々と話をしてくれたのは秘書のテレサだった。テレサの話では彼は左遷されたと言う。その理由ははっきりとは言わなかったが、とにかくとばされたらしい。
「仕事で何かミスでもしたのですか?」
彼はそんなミスをするような人間には見えなかったけれど、そう聞いてみると、テレサはその質問に答えなかった。
テレサはこの町には珍しい白人で金髪だった。目も完全にブルーだった。征服者のスペイン人と土地のインディオの混血は長い年月をかけて行われたので、純粋のインディオはもう少なくなっているが、逆に全くの白人も珍しい。首都のリマならいるだろうが、このクスコでは白人はほとんどいない。
テレサは支店長についてリマから来たと言う。
支店長が秘書を連れて転勤すると言うのが普通なのかどうか、アルベルトには分からないが、アルベルトは直ぐにテレサに魅かれた。もちろん、全く自分の手が届かないところの人間と言うのは分かっていたが。その容姿が瞼から離れなくなった。ツンとすました態度さえ小気味良く思えた。それはせっかくうまく行きはじめたマリアとも気まずくなりそうなほどだった。
あの頭の良さ、あの美しい顔、素晴らしいスタイルをマリアと比較すれば・・・。
もちろん、これはずっと後になって聞いたのだけれど、支店長の転勤の原因はテレサにあったと言う。その支店長は以前、本社の総務部長で副社長に次ぐナンバー3の地位にあった。結婚して子供もいた彼に、大学を卒業して入社してきたテレサが接近したらしい。その結果、離婚騒ぎになって色々揉めたとか。それに激怒した社長が、彼に辞職かクスコ支店への転職を選択せよと命令したと言う。彼は結局離婚したが、テレサと結婚はしていない。

事務所で時間が出来れば、事務所の書庫にある本を読み始めた。考古学の本はインカ関係を中心に意外と多く出版されていたので、丹念に読み漁った。
自分が子供の頃、親父から聞いた昔話が少し形を変えて書かれていたりする。たまには親父が間違って、話してくれていたことも見つかり、ニヤッとした。また、自分たちが話しているケチュア語と文献に書かれているそれでは、単語の意味が違うケースもあり、一つずつ赤線をひいて覚えて行った。
ケチュア語はインカの時代から文字がないのでスペイン語のアルファベットを使って書かれる。インカは縄文字を使っていたが、まだそれは、数字以外は解読されていない。と言うことは、数字の1から0までの縄文字は解読されている。

通常の仕事の他に、ガイドの仕事もたまに入った。その時、頻繁に観光客からマチュピチュについて聞かれた。そうだろう、ここに来る観光客のほとんどはマチュピチュに行きたいから通過地点としてクスコに来るのだ。ところが、旅行代理店の仕事をしている自分が、まだそこに行ったことがない。
村にいるとき、周りの人間でマチュピチュを知らない人はいなかったが、逆に行ったことがある人間もいなかった。時間と金がないからだ。興味はあっても農民にそんな観光地に行く余裕はない。バケーションは彼らには全く関係のない世界だから。
アルベルトは、その重要性を感じ、テレサに相談した。彼女は即時支店長と話す。そして新しい風が吹いた。来週、大きなグループが来るので、そのガイドの助手としてマチュピチュに行けと言われた。

マチュピチュのツアーはクスコから鉄道に乗ることになる。クスコからマチュピチュに行くツァー用の列車の他に、もっと遠い地点に向かう一般車両もあった。もちろん観光客用の列車の料金は、列車のレベルが違うこともあって、距離が短いのにかなり高く設定されている。一等車と二等車の違いだろう。
その日、アルベルトはホテルに朝5時半に入った。ロビーにお客さんの集まるのを待つ。5時にホテルから全員にモーニングコールの電話がかかっている。これを頼むのはアルベルトの仕事だ。 6時に2台のバスで出発し、鉄道の駅に向かう。アルベルトはそのうちの1台のガイドになった。駅に着くとマチュピチュ行きの列車はもう用意されていた。正規のガイドが、「皆さんが乗られる車両はこれです。席の番号は12番から42番まで、お好きなところに座ってください」と案内する。

列車は定時に出発した。クスコを下に見ながら丘を登って行く。ジグザク線路で前後の方向が何度も変わる。
そして丘を越えるとクスコは見えなくなった。このあたりは雨は多いが、高度が高いので、熱帯の様に樹木が溢れていることはない。列車はゆっくりと下に向かって進む。ガイドが今日のツァーの話を始めた。インカの歴史、マチュピチュの話。そしてそれを発見したハイラム・ビンガムの事などが次々に語られた。アルベルトにとっては勉強になる。
しばらくして川が見えてくる。ウルバンバ川だ。インカの時代から「聖なる川」とも呼ばれていた。
オリャンタイタンボ駅を通過した。そのあたりで一番大きな町だ。クスコの周辺で有名な遺跡は、ピサック、このオリャンタイタンボ、それにマチュピチュだ。時間のあるグループはバスでクスコからピサックに入り、その後、このオリャンタイタンボを見学する。タンボは集落を意味し、オリャンタと言う名前の武将が率いていた町だ。
アルベルトは、ケチュア語を使っていたから、そういう知識は持っていたが、実際に来たことはなかったので、お客さんと同じように興奮・感激していた。遠くに雪をかぶった高い山が見える。
高度が低くなってきたので周りの緑の色が違う。マチュピチュから先に進んで行くと、ジャングルの雰囲気の森になる。その先のコーヒーの生産地も見どころだ。

マチュピチュに近い村の駅に着いた。観光列車のサービスはここまで。乗客の全員が下車する。
駅の近くのバス乗り場からマチュピチュ遺跡へ登って行く。グループの場合は乗車券の問題はないが、個人客の場合は切符を買うのに手間取ることが多い。
小さな丘に着いた。そこに遺跡があるのだ。入場券の手続きをしてから遺跡に入る。
ガイドが一番前でリードし、アルベルトは後ろの方でグループの安全を見守る。いつか自分もここにガイドとしてくることがあるだろうかと思いながら。
あまり年取った人がいなかったのでそのグループはかなり元気に歩いた。遺跡の後ろの展望台まで上がった。そこから撮った写真がこの遺跡の象徴だ。遺跡の向こう側にワイナピチュと呼ばれる丘がある。その頂上近くに段々畑が見える。つまり一番上までインカの遺跡になっている。昔は誰でもそのワイナピチュ遺跡に登れたが、今は観光客が増えたので、人数制限があり、許可がないと登れない。

クスコは3000メートルを超える高地なので、高山病にかかる乗客が頻繁に出る。その人が、翌日、マチュピチュ行きの前に「私は今日も調子が悪いのでマチュピチュには行かずに、ここクスコに残ります」と言うことがある、その時、「分かりました、お大事に」と言うのは間違った対応だ。マチュピチュは2000メートルは超えているが高山病になることはない高さだから、そこに行った方が前日クスコで高山病になった人の体調は良くなる。ほとんど100%元に戻る。
それから追加だが、高山病は老若男女を問わず、誰でもかかる可能性のある病気だ。グループの中の青年がやられ、おじいちゃんが元気と言うこともある。高地で生まれて育ったアルベルトは高山病など感じたことはないが、そう言ったことを経験から覚えて行った。

このマチュピチュはインカが作ったと言われるが、クスコを基地としたインカがここまで領土を拡大したのは帝国のかなり終わりの時期だから、この遺跡を全部彼らが作る時間は無かったと考えられる。つまりプレインカの文明が作った遺跡に、インカが後から手を加えたと言うのが正しいのではないだろうか。
遺跡の中に用水路があり、山の上の方から水が流れて来ていた。遺跡の周りは段々畑になっていて、農民が農作物を生産していた。つまり、ここの居住者は水・食物に不足はなかったのだろう。

この遺跡を今から約100年前に発見したハイラム・ビンガムはここで地下室(洞窟)を見つけている。遺跡の壁の近くに穴が開いていて、そこから登山用のロープを使って入るのだが、もちろんその行為は禁じられている。

グループの前にも他の観光客がいるから、自由には歩けないが、それでも主要な観光スポットはすべて回った。全員が感激しているのはアルベルトも感じた。いや彼自身もここに来られたことを喜んでいた。
ツァーが終わった後、遺跡入り口近くのホテルで昼食を取ることになっている。ガイドが言った。「このランチは世界最高です。材料が良いとか料理人の腕がすごいと言うことではありません。世界最高のマチュピチュ遺跡のそばで食事をするのが素晴らしいのです。違いますか?」
グループの中から拍手が起きた。遺跡を見ながら食べるのではないが、彼の言い方も許されるかもしれない。
ここのホテルの定食は前菜、メインディシュそしてデザートになる。前菜は野菜・海産物にスープが付くが、ほとんど鳥のスープだ。メーンは肉か魚になるが、肉は鶏肉が中心、魚は近くで取れる川魚が多い。高山病はここではいないから、遺跡を歩いた後の空腹感から、全員が食事を楽しんだ。
アルベルトもホテルの食事にすっかり慣れてきた。
ホテルのレストランでゆっくりしてからバスで列車の駅に戻り、夕方にクスコに戻る汽車に乗った。
観光客用に列車はその頃は一日1便だけだった。観光客の数は今と違って限られていたから、それで十分だった。
少し薄暗くなったクスコに列車は到着し、グループをバスでホテルに案内する。ガイドはそこで挨拶して別れた。客は各自の部屋で少し休んでからホテルで夕食になるが、アルベルトはそれにも付き合うことになった。旅行代理店の社員としての仕事だ。
早朝から夜遅くまでの仕事だったが、アルベルトはその疲れを喜んだ。
明日からの仕事が楽しみだ。これから出会う観光客に今日の喜びのコメントが出来るからだ。会社にとっても、これは立派な投資になるだろう。
毎日、いやいや仕事に行くのは本人にも会社にも良いことではないが、アルベルトの様に、毎日喜んで仕事をしている社員はそれほど多くはないだろう。

毎日、仕事を終えて部屋に戻る時の気分が何とも言えなかった。黄昏時はクスコで最も人の混み合う時だ。人々はそれぞれの家庭を目指して歩く。その人の流れに乗って歩くのが彼は好きだった。見知った顔に挨拶をする。自分の世界が広がっていくのを感じる。少し遅く帰る時は裸電球の街灯がほのぼのと照らす道を一人で歩く。疲労感が身体を包んでいるが、それを充実感と感じられる。すべてが順調だ。大人の世界に入っている。
競争に勝っていくことが生き残るために必要であり、そのためには自分が精進しなければならないと思う。
頑張れアルベルトと自分で自分に言う癖がついたが、やはり緊張しているのだろう。でもそれで良いのだ。そのために生きているんだ。後悔しないようにいつも全力をつくすしかない。自分にとっては勝負は始まったばかり、長い長い人生の競争が。
空を見上げると、深い暗闇の中に南十字星が強くはないが、しっかりした光を放って輝いている。
山高帽にポンチョのインディオが自分の横を通り過ぎて行った。
ふと洋服姿の自分とそのインディオの間にはもう溝ができているのを感じた。その時、懐かしい山の家族、父親と兄姉の顔が浮かび上がった。

第6章

アルベルトの18歳の誕生日が近づいてきた。すべてが順調だった。ある日、ふと故郷の村に戻って見る気になった。家を出たのが12歳の時だから、もう6年近くも彼らと会っていない。その間に背も伸びたし、髪の毛だってパーマをかけ、ピカピカ光った靴を履くようになった。一度、村に帰って驚かせてやろう。
そう決心すると、それをいつにするかでドキドキするほど心が揺らいだ。
休みになった日曜日、お土産の衣料・食料を袋一杯に詰めて、それを背中に担いで道を上っていった。子供の頃、2時間もかけて上って行った道だ。いつも兄貴のアルバロと一緒にロバの尻尾に捕まってはふざけていた。
久しぶりの山登りと言う感じで、背中の荷物が重かった。まだ17歳なのに、あの頃、山道を駆け回った元気さは無くなったのだろうか。ポタポタ汗を道に落としながら登って行った。
馬の後ろを、子供が「ハックチュウ」と言いながら追い立てている。さぁ行けと言うケチュア語だ。自分たちの小さかった頃と同じだ。
裸足で破れたままのズボン、寒いのにボロボロのシャツの上にセーター、頭には耳垂れの付いた布をかぶり、丘の途中で一休みしている男性がいた。
この地区には頭に白い山高帽をかぶり、スカートを何枚も重ねてはき、相撲取りの様に太っている女性が目立つ。それは典型的なケチュア族の女性スタイルだ。多くの女性が使っているのは真っ白な帽子だが、時々、違った色もある。それはケチェアの中の部族によって異なり、その色を見るとその女性が何族かすぐに分かる。

このアンデスに昔から住み着いている人たちをインディオと呼ぶが、今ではそのインディオと言う呼び方はほとんど蔑称になっており、混血と言う意味のメスティソの人たちはもちろん、純粋のインディオの人たちもそう呼ばれるのを好まない。
かえって原住民を意味するナティボとか、百姓(カンペシーノ)と呼ばれるのを好むらしい。アルベルトもインディオの身体的特徴の一つ、額が隠れるほどの髪の毛の生え際をなるたけ目立たないように気を付けていた。

ついでに書き加えると、馬鹿にされているインディオが逆に馬鹿にする種族もある。それは中国人だ。19世紀に大荘園主が労働力不足から中国人をペルーに連れてきたことがある。そのため中国人はインディオよりレベルが低く奴隷だと思われていた。インディの子供が東洋人に「チノ チノ コチノ」(汚い中国人と言う意味)と叫んで、ごみや石を投げつける。私もその被害者になったことがある。

東洋人に「汚いお前たち」と子供は叫ぶが、彼らは冬になるとほとんどシャワーを浴びない。それはシャワーからお湯が出ないからだ。その時期に、彼らのそばに行くとツーンと匂いがする。

さて、とうとう村の入り口に立った。そっくりそのままと言っても良いほど、何も変わっていない。そして自分の生まれ育った家に着いた。
「父ちゃん、兄ちゃん、ただいま」
もう昼時だったので畑から戻ってきているはずだった。屋根から薄く煙が上がっているのは炊事をしているからだ。この辺の家には煙突と言うものはなく、すべて家の中に炊き込める。それは寒いこの地方では保温になるし、虫の駆除に役に立つ。もちろんそのため部屋の中は煤で真っ黒になるけれど。
もう一度大声で名前を呼んだ。アルベルトの声にアルバロが出てきた。
「おっ、アルベルト」兄は駆け寄るように近づいてきて弟のアルベルトを抱きしめた。
「大きくなったな」あんなに仲の良かった兄弟の数年ぶりの対面だった。兄のアルバロはもうすっかり土地に生きる農夫と言う感じだった。顔は日焼けして黒く、手はがっしりとしていて、その力強さを物語っている。弟のアルベルトは肌は少し浅黒いが、日焼けはしていないし、その物腰はどちらかと言うと西洋風だ。
服装も対照的だろう。ただ眼だけは二人とも、若さと情熱を表すように輝いている。

「父ちゃんは?」「うん」 アルバロ―の声が急に低くなる。
「どうかしたの?」「いや、アリシアなんだ」
アリシアはつい先ごろ、3人目の赤ちゃんを産んだのだが、そのまま起きれず、寝たままになっていた。
この辺には医者はいないので、昔からの生薬を煎じて飲ませている。
しかし一向に良くならない。熱が続き、うわごとを言っている。
アイコーと呼ばれる村内の相互扶助の仕組みがあるので、畑仕事などはまだ助かっているけれど、日常のことは自分でやらなければならない。夫のホルヘにはもう両親がいないため、彼だけではどうしようもなく、アリシアの父のアルツーロが頻繁にアリシアの家に行っている。
アルベルトとアルバロは村はずれのアリシアの家に急いだ。重苦しい雰囲気があたりを覆い、子供のはしゃぐ声が全く奇妙に響いている。

「とうちゃん、アルベルトが戻ってきた」低い声で兄が中に向かって言った。すぐに父親が出てきた。すっかり力を失ったように、日に焼けて黒い顔が青くなり、血の気が失せている。目やにの付いた目に涙が浮かんでいた。
「アルベルト、中に入れ。早くアリシアに会え。そして話をしろ」
父親はそういうとアルベルトの背中を押して中に入れた。自分はそのままアルバロと一緒に外に残る。
「ねえちゃん」アルベルトの声に彼女は反応しなかった、部屋の中にはベッドに寝かされたアリシアと、その向こう側に、夫だろう、若い男性が一人いた。生まれたばかりの赤ちゃんはどこかに預けたのか、横に小さな子供が二人いた。
暗い室内に目が慣れてくると、自分が育った家と同じようなつくりと言うことが分かった。時間をさかのぼって、自分が子供の頃に戻ったようだった。手を組んで寝ているアリシアはあの陽気で、勝ち気で、家の中を仕切っていた力のすべてを失ってしまっていた。
アリシア」もう一度アルベルトは声に出してそばに寄った。夫は何も言わない。
彼女は眠っているように見えた。熱が出ていたのか、顔色はまだ赤いように見える。呼吸は全くしていなかった。目は閉じられている。
アルベルトは突然、アリシアの胸を叩き始めた。ガンガン叩いた。夫がアリシアを壊すつもりかと驚いて止めに入ったほど強くたたいた。以前、何かの本で、まだ生と死の間をさまよっているなら、強く胸を叩くと心臓が動き始めることがあると読んだことがあったからだ。
暫くすると今度はマッサージを始めた。心臓に向かって強くこするとよい。これも本に書いてあった。小一時間ほどアルベルトはアリシアの命を助けようとした。もとより無駄なことだったかもしれないが、彼は知っていることを実行した。自分の手は汗ばんでいたけれど。アリシアの方は身体の温度が下がり始めたのが分かった。
それでもまだ手は軟らかく、なんだか「久しぶりね。アルベルト」と握り返してきているようだった。
静けさが一変した。男は大きな声を上げアリシアに抱きつくと泣き始めた。その声に驚いたのか、マネをしたのか子供たちもアリシアに取りすがって泣き始めた。
アルベルトはアリシアにもお土産を持ってきたのに。
働いて、働いて、幸せとか、楽しみとかに幾らも浸ることが出来ないうちに神様に召されていったなんて。正直な人間で、働き者で、3人目の子供を産んだばかりの20歳の母親が、どうして死んでいかなければならないのか。あまりじゃないか。
親父と兄貴もいつの間にか中に入ってきていて、彼女のそばに座り頭を下げていた。
アリシアの身体がこわばり始めていた。もう手を握ってもさっきのようにはならない。既にアリシアの魂は、アリシアを形作っていた外形を残して飛び去ったようだ。もうアリシアの形骸は投げ捨てられているかのように、外の世界には何の反応もしない。固く冷たく横たわっているだけだ。

葬式は極めて伝統的に、したがって簡素に行われた。墓地に新しい穴を掘り、アリシアを入れた棺を降ろし、元通りに土をかぶせる、その上に十字架を立てた。
作業が終わったころ、日が傾き、一日が終わろうとしていた。
すべてを無に変える暗黒にも似た夜が迫ってきた。村人たちも皆、それぞれの家に戻った。

(続く)