チリの風 番外編 小説「情熱」 その1:第1章~第4章

昔、クスコにいたとき、自分の経験を生かして考えたストーリーをチリに来てから文章にしました。40年も前のことです。その時は完成しなかったのですが、 それにもう一度、手をいれてみました。それがこの「情熱」と言う小説です。

クスコに住むインディオの人たちの生活・考え方が読者に伝わると思いますが、どうでしょう。
クスコに最後に行ったのは10年前です。でも3年前にペルー北部のチャチャポヤスに行き、現地の人と話をしましたが、首都のリマはともかく、辺地の小さな町には、昔の雰囲気がほとんどそのまま残っていました。

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「情熱」 

クスコは古い町だ。もっとも古いと言っても町が作り始められてから千年はたっていないだろう。そこがインカ帝国の首都だったことは有名だが、帝国の首都になったのは、800年ほど前のことと言われる。そして首都としての賑わいを見せたのは、もっと後のことになる。
その繁栄は長くは続かなかった。それは1533年にスペイン人がこの町に入り、征服者として暴行を繰り返したからだ。
あの神秘的なインカ帝国には文字がなかったから、文化の遅れた地方国家の一つだと言う意見もあるが、社会福祉などは当時の欧州を越えた高いレベルだったし、建設技術は現在でも考えられないほどの高い水準を持っていた先進国だったとも言われる。
社会福祉に関して、当時のインカ帝国の国民には飢え死にする自由はなかったと言われる。それは飢饉に見舞われた地区や、両親が亡くなった子供などに国が援助するシステムが整っていたからだ。またこの町には太陽の神殿(コリカンチャ)をはじめとするインカ時代の建物が多く残っている。あの「剃刀の刃一枚も入らない」と言われる石の壁を見ることもできる。インカの建設技術が進んでいた証拠として、スペインが侵入して100年少し経った1650年にクスコで大地震が起こった。スペイン人がその間に建てた建物はほとんど全部崩壊したが、インカの建物は、例えば太陽の神殿には被害が少ししか出なかった由。これはスペイン人の記録に出ている。

歴史は人類の涙・恨み、そして憎しみの上に構築されたものだが、この町にはスペイン人に略奪され、暴行され、殺されていったインカの市民たちが、今なお立ち上がれないものがあるのではと感じられる。もちろん、それは自分たちの権利を失ったまま取り戻せないと言う意味だ。
人通りの少ない横町を、インカの壁にそって道を歩いていると、ふとあのインカの時代に入っていくと言う気がする。ここで聞くケーニャの笛の音は、どこで聞くより悲しく響き、激しい戦いの後の静けさの中にしみこんでいくようだ。
もちろん、現在のクスコはクスコ県の県庁所在地として人口40万人を超え、地方の行政・文化の中心地だ。総合大学もある。
世界中からインカの遺跡を見るため多くの観光客が訪れる。立派なホテルも建てられ、商業も観光を中心に活発になっている。
所がその繁栄とは全く別に、多くのクスケーニョ(クスコ人)は生きている。むしろ21世紀に合わせて生きている人はそれほど多くないとさえ言える。
銀行、所得税、大学教育などには全く関係のないのが多くのインカ時代の子孫であり、過ぎ去った時代の衣に、まだすっぽり包まれて生き続けている。
その彼らの生活を見てみたい。

第1章

彼らの畑はそう広いものではなかったが、生活に困ると言うほど小さくもなかった。そこは山の斜面にかかりかけで、なだらかだったので牛を使った耕作が可能だった
それで親父アルツーロは何度も思ったのだが、「自分の耕地があの山の上の地区ならどんなにつらかったことだろう。おまけに俺の所には牛が一頭いるのが喜ばしい」
農地解放が行われる前は、平地・盆地の耕しやすいところはスペイン人系白人の大荘園になっていて、彼らインディオはその農地で働くか、支配を嫌って山の上の方の誰も耕さない空き地になっているところを開墾するかの、どちらかを選ぶ必要があった。
今の政府がいきなり農地解放を打ち出した時、この辺でそれを理解できる人間は少なく、どうせまた騙されるのだろうと皆は考えた。
それでも都市に近い地区は、ちゃんと一定のルールに従って政策は実施されたが、しっかりした行政組織がないこんな遠隔地では何が何だか分からず、荘園主が町に引っ越した後、早い者勝ちだと言う雰囲気になった。つまり誰がどこを取ろうとかまわないとされ、多くの喧嘩沙汰が起きた。その後、ようやく表向きは土地は農業協同組合所有となり、それぞれが居心地の良いところに落ち着いた。

アルツーロは、その頃、隣村からセシリアを嫁として貰い、長女アリシア、長男アルバロ、そして次男アルベルトを次々に授かった。嫁は働き者だったが、それが仇になり、風邪をひいても十分な休養を取らず、貧弱な食事のせいもあって肺炎になり、碌に医者の手当も得られず逝ってしまった。
その時、アリシアは10歳、アルバロは8歳、そしてアルベルトは7歳だった。
その日からアリシアは母親の代わりを務め、食事を始め家事を取り仕切った。アルツーロは亡くなった嫁の実家にあまり顔を出さなくなったが、隣村には時々行って酒を飲んで帰ってきた。何やら噂はあったが、すぐに再婚することはなかった。
アルバロとアルベルトの兄弟は極めて仲が良く、どこに行くのも一緒だし、寝る時だってそうだった。兄は弟ばかりでなく、他の家の小さな子供の面倒もよく見た。
村の人は殆ど農業に従事していた。そして収穫した農作物をこの地区の唯一の町クスコに持って行って販売する。そのお金で日用品や雑貨を買うと言うサイクルで生活していた。
貯金するなんてことはほとんど考えたこともなかった。市場で物が売れ、それで買おうと決めていた品物を購入すると、残ったお金は一本、まれには2本のビール代になった。服、トイレット・ペーパ、もちろん食料品も買う必要がある。 
蛇足だが、土地の人はここのビール「クスケーニヤ(クスコの娘)」は世界でトップクラスのものだと信じ込んでいる。

父親と一緒にクスコの町に出かけていくことは、二人の兄弟にとって素晴らしい楽しみだった。2頭のロバの背中に芋やトウモロコシを山ほど積んで、朝早くまだ暗いうちに家を出る。
町に行かないアリシアは誰よりも早く起きて朝食を用意する。皆を送り出すと洗濯・掃除が待っている。編み物もする必要がある。彼らが戻ってくる夜には部屋に火を灯し、スープを作って待っている。たまには3人が町にしかないおいしい菓子や、古着だがセーターやスカートのお土産を買ってきてくれることもあり、戻ってくるのが待ち遠しかった。
クスコは盆地だから、周辺の村人にとって往きは下り、戻りは上りになる。それで子供たちはつらい帰りには商品を売りつくして背中の軽くなった馬やロバの尻尾に捕まって歩くのが普通だった。
時計を持たない彼らの時間の概念は、太陽が昇る・真上に来る・沈むくらいしかなかった。彼らの村からクスコまで2時間歩くのは普通と言われる。そんな厳しい歩きが日常とは読者の皆さんには想像できないだろう。筆者は一度、その家族の後をついて歩いたことがある。確かにたっぷり2時間かかった。もちろんその後、暗くなった道を懐中電灯を使ってクスコに戻ってきたのだが。

「あっ、蝶々だ」弟のアルベルトが追いかけ始めるとなかなか戻ってこない。その次は兄のアルバロが野イチゴを見つけてしゃがみ込む。
「早くおいで」父親の声が遠くから聞こえて、やっと二人は父親の方に走り出す。
市場で品物を並べて売るのは女性の仕事だ。男の売り手はほとんど見ない。トラックに雑貨を積んできて、そのまま店にしている運転手の姿をたまに見ることはあるけれど。
そこで父のアルツーロはロバから商品を降ろし、子供に店を任せると姿を消してしまう。もちろん一杯飲みに行くわけだ。飲み屋はいつも開いていて、朝早くから人はあふれている。
アルバロとアルベルトの兄弟は品物を並べ始める。雑然としているより、整然と積み上げた方が良く売れると知っている。いちいち量らなくても良いように一山いくらで売る。それは教えてもらった通りだ。
仕上げが済むと大声を出してみる。「安いよ。買ってよ。おまけするよ。おいしいよ」うれしくてたまらないようように大声を出した後、二人は顔を見合わせる。
常設の中央市場はマチュピチュ行きの鉄道の駅の前にある。そこには雨が降ってもかまわないように屋根があった。なにしろクスコは年に半分は雨期になり、その時期は毎日の様に雨が降る。近在から来るインディオはその市場の周りに店を構える。そんな露店でも市の役人が場所代を集めに来る。
市場にも観光客はよく来る。元気な二人を見て写真を撮らせてくれと言う。どこの国の人か、何語を話しているのか分からないが、二人は答える。「いいとも、おいらたちの写真を撮りたいのかい?ではジャガイモ1キロ買ってね」もちろんジャガイモは売れないけど50円くらいのコインを二人の手の中に置いていく(通貨の単位はソーレスだが、読者に分かりやすい様に円表示にする)。
二人は胸を張って言う。「父ちゃんに言わなければ。おいらたち、写真に撮られたよって」
昼頃になって親父が赤い顔をして戻ってくる。「坊主、少しは売れたかい」「父ちゃん、見てよ半分売れたよ。1,850円」、その日の午前中の売り上げだった。それからアルバロが50円を差し出した。これ、外人に写真を撮らせたらくれたの。
親父は笑うと、
「そいつはお前らの小遣いだ、何か買ってこい」
飛び上がって、二人は市場に入っていく。まず10円のカステラを2個買い、コロッケを10円で2個買って、残りの20円で生ジュースをジョッキ一杯飲んだ。うまかったねと兄弟はにっこり。
戻ると父親は自分たちと同じように露店を出している人たちと昼食を食べていた。
「ほら、肉食え」、二人は殆ど骨しかない肉を親父からもらった。
「二人でもう一皿食べても良いからな」空っぽになった皿をもって二人は走った。
「おばちゃん、もう一皿」
インディオの女性が大きな鍋を2つ置いて座っている。一つには飯、もう一つには野菜と肉を煮たものが入っている。それを手で器用に盛り付けて言う。「40円だよ」
昼食が終わると親父はまた出て行った。残った二人は満腹のおなかでトロンとした目をして野菜の前に座る。
「安いよ。うまいよ」もう声も半分眠っている。
「チキ―ト(小さな子供と言う意味)、お客さんだよ。寝とぼけていると泥棒にみんな持っていかれるよ」ぐっすり眠っていた二人はその声で目を覚ますと、また声を合わせ大声で叫んだ。「安いよ。うまいよ」

学校は仕事が暇なときには通うことが出来た。この辺の子はほとんどが、漫画を読みたいので読み書きを習おうとする。二人はまじめに勉強したので、すぐに読み書きができるようになった。いや漫画が読めるようになった。
野菜を売るから足し算も掛け算も出来るようになった。
英語だって大した違和感もなく受け入れることが出来た。子供たちは外人が来ればHow Are You?と言ってから、マネーと言って小銭をねだることをやっていた。
教育が大事なことは当然ペルー政府も認知しており、小学校は最低の義務教育とされていた。しかし学校で学ぶことは無料でも、ノートや鉛筆の学用品を買ったり、制服を買うのに金がかかるから、貧困家庭では子供を学校には通わせることはできなかった。また子供が家庭の重要な役割を持っていることから、アルバロ兄弟のように毎日学校に通わせることもできなかった。
とは言え、文字の読めない子供はここからほとんど姿を消した。漫画1冊読めないようでは子供の世界でも肩身が狭くなるからだ。
旅をして奥地に入ると、こんな所にと思わせるような辺鄙なところに学校があって驚かされることがある。もっともそういう学校は複式授業で、全校が一クラスの勉強をする。義務教育で就学率は高いと言われても実際のレベルを評価するのは難しい。もちろん、それでも学校教育の中に入っているのは確かだが。
アルバロたちの担任のペドロ先生は毎日、勉強することの大切さを強調した。
「いいか、お前たち。畑で働いて親を助けるのは生きるためには重要なことだ。しかし学校で勉強して読み書きを覚え、世界を知ることは、より良く生きるためにはもっと大事なことになる。分かるか、その違いが。生きるためより、より良く生きるための方が重要だと言うことが。
世界はどんどん動いている。私たちの国ペルーはそれに取り残されそうだ。それはいつまでも変わらない私たちの生き方、考え方にあるんだ。お前たち、町でインディオと馬鹿にされたら、悔しいだろう。でもしようがないと諦めて来たのがお前たちの親だ。しかしお前たちは違う。教育を受けて、そんな卑しめや迫害に真っ向から立ち向かっていかなければならない。それをやるのがお前たちの使命なんだ。それでこそ私たちの国、ペルーは強くなり、大きくなるんだ。インカ帝国の子孫の誇りを忘れてはいけない。私たちはスペイン人の侵略者に馬鹿にさせられてしまったのだ。私たちの祖先は勤勉で素晴らしい文化を持っていた」
彼の語る言葉は、もちろんすべてが子供の頭に入っていったのではないだろうが、強い刺激を与えたことは確かだ。
進歩のない毎日を送り、何も考えないでチチャ(トウモロコシで作った酒)やビールを飲んでいる。そんな人生で良いのか。
子供たちは自分たちの親の生活を改めて見直すことになる。

一つ違いの兄弟はほとんど同時にいろんなことを覚えて行った。小学校を終えるころには、自分たちの暮らしと違うそれが町にはあり、さらに外国ではもっと違っていることを感じていた。彼らは二人とも成績は良かったが、上級の学校に進むことは考えられなかったから、もう一人前の農夫として、父親と同じように種まきから収穫までの作業を身に着けて行った。
子供が力をつけてきて3人で働いたので、以前より仕事は楽になった。だが親父の飲むビールの量程、彼らの衣服は増えなかったし、食べ物だってよくはならなかった。
でも兄弟にとって町に出ることは以前にもまして楽しみになっていった。商売の駆け引きを覚え、客を逃がさない程度に高く売ることも覚えた。実際ここでは値切らないで買う客などいないから、いかに客に気持ちよく値切らせてから、自分の売値で売るかが腕の見せ所なのだ。

「兄ちゃん、僕、町に住みたくなった。その方が面白そうだもの」「うん、俺もそう考えていた。こないだから肉屋のおばさんが、人手がいると言っているんだ。月3000円の給料で飯付きっていうんだ」「すごいね。月3000円も。肉屋の奴らはいつも肉食っているんだろうな」「うん、でも父ちゃんがどう言うか、怒りださないかな?」「そうだね」
しかし3か月たつともうその魅力に勝てなくなり、2人はある晩、父親に神妙に切り出した。
「とうちゃん。一つお願いがあるんだ」兄のアルバロが切り出した。弟のアルベルトはまるでその影のように寄り添っている。
「俺たち、町に行って仕事がしたいんだ。父ちゃんには迷惑かけないから、町に行かせてください。お願いです」
「何をして生きていくんだ?」
「市場で働くよ。あの角の肉屋で月3000円くれるんだ。飯もちゃんと食わしてくれるって」
親父が何と答えるかどんな反応をするか、実のところ二人はおびえていた。
アリシアも事の成り行きを心配して、双方の眼の色をうかがっていた。
アリシアも早晩この家を出ていくことになりそうだ。彼女はもう15歳の誕生日を過ぎていたが、おなかの中に赤ちゃんがいた。この地方では15,16歳の母親はそれほど珍しい存在ではない。それに結婚してから子供が生まれると言うより子供が生まれるので結婚すると言う方がこの地方では多かった。昔からそうだったから、それが自然なのだ。
辺地では年に1度ほど、神父がトラックに乗って地方に来る。そしていろんな行事、例えば結婚式を行うわけだ。
アリシアは妊娠をまだ父親に告げていなかったが、いずれ分かることだし、もう母親になるという自覚、一人前の女性としての誇りを持っている。それに何より、この数年間、亡くなった母親の替わりとして、家事を切り回してきた自信があった。

「そうか出ていきたいのか。しようがないな」意外にアルツーロは静かに話し出した。深い皺と日に焼けた顔は実際の年齢よりずっと老けて見える。
「若いうちは町にあこがれるのは無理もない。ここより楽な暮らしがある。俺もそう思ったことがある」
パチパチと薪が燃えていくのを見ながら、話しを続けた。
「だが、俺は村に戻ってきた。街には豊かさはあったかもしれないが、しかしそれは見せかけだ。インディオと町の奴らからさげすまれる俺たちにとって、俺たちはアカウマ(ケチュア語で馬鹿者)で、ブーロ(スペイン語でロバのこと)で、やっぱりインディオなんだ。家と言えば、電気もなく、水道もない、町はずれの丘の上だったのだが、それならこの村と同じようだった。おまけに詰め込まれるような部屋に入れられ、雀の涙の給料は酒と博打と女に消えてゆく。いつも着ているものは汚れきっておりボロ同然。親方の眼が光っていて何らかの理由をつけて給料から引こうとする。おまけに周りの奴らはいつも親方に告げ口をする。盗人インディオばかりで落ち着けない。ここと違う。この村には盗人はいない。俺はアカウマはアカウマなりにもっと人間らしい暮らしがしたくなった。そしてこの村に舞い戻ったんだ。いつかもっと詳しいことを話しする機会が来るかもしれない。お前らに大きな口をたたく父ちゃんではないが、目が覚めたら戻ってこい。悔しくなってどうしようもなくなれば帰ってこい。早い方が良いぞ。いつでも戻ってきなさい」
重苦しくなった空気にそれ以上、話は進まなかった。その夜はそのまま床についた。けれども4人ともいつものように直ちに眠りに入らないで、真っ暗の中で遠くを見ながら物思うのだった。

明るい日差しが扉の下から差し込んで、新しい朝を告げた。いつもの通りアリシアは手早く火をつけコーヒーを入れる。アルベルトは村はずれにあるパン屋に行く。食事の最中、今朝はいつもと違って皆、黙っていたけれど、アルバロは授業で先生にあてられた生徒のように顔を真っ赤にして、一気にしゃべりだした。
「父ちゃん、町に行くの止すよ。やっぱりたまに行くだけで良いよ。うまく言えないけれど、父ちゃんの言うことが分かるような気がする。ここでもっと一生懸命働いたら、人生を変えられるような気がするんだ。本当は何もないのかもしれないけど。アルベルトにはまだ相談していなかったけれど、俺は町の中でのし上がっていける人間とは思えない。そいで、俺ここに残るよ」
「えっ、兄ちゃん」アルベルトは突然の兄の変身に目の前が白くなり、アルミのコーヒーカップを落としそうになった。
じゃ、ぼくもそうすると喉まで出かかったが、一瞬、親父は失敗しても許してくれると言っているんだ、一度自分を試してから、様子を見るべきだと考え、腹を決めた。アルベルトの人生はこれで大きく変わった。

ほとんど持っていくものは何もなかったけど、小さな風呂敷包みを作ると日が高くならないうちに家を出ることにした。父親は最後に彼を強く抱きしめると「アマスヤ・アマユヤ・アマケヤ」と言った。これはインカにとって、人々の心を繋ぐ決まり文句だった。物を盗むな・仕事を怠けるな・嘘をつくなと言う意味だ。天気は上々で、皆の見送りを受けて、アルベルトはいつもロバと歩くクスコへの道を飛ぶように駆け下りて行った。

第2章

背中の小さな荷物を店の台の下に置くと、さっそく仕事が待っていた。この市場は週に三日、肉が入ってくる。ちょうど今日がその日に当たったので、トラックから肉を降ろし、店の中に運ぶのが最初の仕事になった。汗が肉にしみこむ。肉から身体に汁が染み込む。牛の骨がぶつかって泣きたいほど痛い。畑で働いていた時には知らなかったつらさだ。
ヘトヘトになって昼が来た。昼食が出る。野菜を売りに来ているとき道端で食べた昼食より肉も少ないし、拙いおかずだったが、ものも言わず食べてしまった。身体はもともとそう大きな方ではないし、ここでは最年少だ。
アルベルトにはここの仕事がきついのは明らかだが、泣き言を言わない決心はできている。
肉屋は午前中が仕事で、その日は早いうちに仕事は終わってしまった。普通、3時には解放される。主人の家の奥の納屋が彼の新しい寝所になった。自分の体に染みついた肉の匂いのほかに以前に住んでいた人間の汗の匂いが残っているが、仕方がない。諦めなければ。そのうち慣れるだろう。窓がないので扉を閉めると昼から真っ暗になる。窓を開けていると風が入りごみを舞い上げる。雨期だと雨が入ってくる。もう寝るしかないのか。
寝台は古いタイヤを2本置き、その上に板を渡し、わらが置かれているだけだ。そこへ自分で持ってきたポンチョを毛布にして、かぶって寝ることになる。
夜の冷え込みには慣れているけど、暖を取るため親子が寄り添って寝ていた昨日までとは大きく変化する。最初は寒さと寂しさに身を縮こまして寝ることになった。村に戻ってしまおうと思うことも何度かあった。無理もないことだと言えるだろう。それでも彼は自分の野心・夢を膨らませることで、何とか持ちこたえることが出来た。

やっと1か月たった、店の主人は愛想も何も言わず、アルベルトに2500円を渡した。「ご主人500円足りません」「500円は家賃だよ」冷たい反応しかなかった。
約束が違う。怒りより悲しみの方が強かったが、それでも最初の給料だ。しかも今まで手にしたこともない大金だ。頬が緩んでしまう。週に1,2回、市場で野菜を売って手にする金額と同じようなお金がある。しかも自分のものとして。
先ず部屋に帰ってこの大金を隠さなければ。いろいろ考えたが、結局はベッドの藁の中しか思いつくことはなかった。紙幣をくしゃくしゃと丸めて藁の中に入れ外から見えないようにした。これで一安心。さて、映画にでも行こうか。100円札を一枚引き抜く。クスコには映画館は多く、主にアメリカのものだが、たまにインドの映画もかかっている。アルベルトは香港の空手の映画に入った。アチョーと言う声が耳に残り、ベッドに入ってもまだ興奮した。

2か月目が、昨日と同じように始まった。仕事は同じでも、僕はもう2500円も持っている金持ちだと思うと自然とにっこりしてしまう。兄ちゃんは、俺がそんなに現金を持っていると知ったらびっくりするだろうなと思った。
実は2500円で人を雇うことはその時期には違法だった。最低賃金法と言う法律があって、最低でも5000円を払わなければならない。しかしアルベルトにはそんなことを知る方法はなかった。
いつもなら仕事が終わった後は、町をウロウロ歩き、何も買わないけど、いや正確には金がないから何も買えなかったけど、露店をひやかし、映画館の看板を見て、電気商の前でラヂオを飽きず眺めてから、この部屋に戻ってくる。しかし今日はまっすぐ戻ってきた。扉は鍵がないのですぐ開く。ギーツ。部屋の中に入る。扉を押し除くように光が入る。
アルベルトはにっこりしながら昨日隠したお金を探る。ウン?無い。そんな、冗談だろう。朝出る前にちゃんと確かめたのだから。暗くてよく見えないからかな。扉を全開する。
藁を全部床に投げ捨てた。それでもなかった。次第に顔色が薄れ頬が引きつり始めた。無い。涙が頬をつたって落ちて行く。泣き声を上げた。それでも見つからない。
誰だ。誰が僕の全財産を盗んだのだ。わずか100円しか使っていないのに。
休みは2週間に一度と言う約束だったが、先月は1日休んだだけだった。そのせいではないが、翌朝、アルベルトは店に出なかった。その深い落胆は仕事をする気にさせなかった。ベッドの上で不貞腐れ、太陽が高く上るまで起きなかった。
ポケットには使い残った小銭が残っていた。やっと昼頃外へ出た。店に出ないので、今日の食事は外でする必要がある。
露店の所でフェルナンドに会った。同じ村の出身で、村にいるとき、兄のアルバロと3人でよく遊んだものだ。彼は小学校が終わらないうちに村を出てクスコの町に住み始めた。別にどういうつもりもなく昨夜の盗難のことを語った。フェルナンドはしたり顔で言った。
「馬鹿だな。お前も。そんなの主人の仕業に決まってるじゃんか。お前の部屋にはカギがない。そして母屋の奥だぜ。他の誰が入れるの?母屋の中を自由に通って、お前の部屋に行けるのはあの野郎だけじゃんか。お前はバカで現金を部屋のどこかに隠すに違いないとちゃんと知っていたんだ。分かったか、アルベルト。それより俺の仕事を手伝わないか?昨日盗まれた分なんてすぐ戻るぜ。今日の内にもな」
フェルナンドはチャンスを窺っていたかのように身をすりつけてきて言った。
「ほら、おごってやるよ。腹減っているんだろう?」
近くの露店から揚げたてのパパレジェナ(芋のコロッケ)を買ってくると、アルベルトに差し出した。アヒ(唐辛子)が効いて涙が出そうだったが、うまかった。
「仕事って何だい?}
「簡単よ。市場の角で待っていて、俺が走ってきたらリレーして走ればよいんだ」
「それは何の真似だい?」
「お前も意外に鈍いんだな。俺がかっぱらってきた財布をお前に渡すから、お前がそれを持って逃げるのさ」
アルベルトの悲しみ・怒りがいかに深くとも、父親の最後の言葉は忘れられない。「物を盗むな」は彼の心に刻み込まれている。
「おいら、よすよ」アルベルトはそう言って立ち上がった。
「ちぇっ、上品ぶりあがって。まぁいい、金が欲しくなればここに来て俺と働け。どうせここらの大人の金はお前の主人の様に汚い金ばかりなんだ。良く手を洗わなければこっちの手が汚れるくらいよ」
一人前の口をきくとフェルナンドはアルベルトと別れ、屋台のチェス台の方に歩いて行った。
もういっぱしの「顔」のようで、、財布の中には1000円札も入っていた。もっともその財布もかっぱらったものだろう。
フェルナンドも村を出て自分の人生を変えたのだが、怪しい道に入ってしまったわけだ。
実際クスコにはそういうたぐいの泥棒が多く、観光客の財布やカメラが狙われる。観光客の数の増加と犯罪の増加のカーブが一致すると言うのは悲しい事実だ。

アルベルトは夜になってやっと部屋に戻った。誰にも会わず、納屋の自分の部屋に入った。戻ってきたが、仕事を一日さぼったことは気を重くさせた。寝台に寝転ぶといろんなことが頭に浮かんでは消えていく。明日どうやって言い訳をしようか?いや、それよりあいつに復讐できないか?山に戻るのに良い潮時なのか?兄ちゃんと遊んでいたらこんな悔しいことには出会わなかっただろう。ところで、姉ちゃんはもう結婚して家にはいないのかな?

週に一度か二度は父親も兄もこの市場の外に来ているはずだが、まだ一度も会ったことはない。自分から二人を捜せば会えるのはわかっているけど、もっと一人前になるまで合わないことにしようと思っている。
でも今日はフェルナンドの誘いを断って良かった。あんな仲間に入っていれば一生、泥棒だ。寝入るまでの時間の方が寝た時間より長かっただろう。新しい朝は直ぐに来た。

それから半年もたった。もちろんもう2度とお金を取られるドジな真似はなかった。2度目の給料が手に入った時、まっすぐ鍵屋に行って小さなカギを買った。それがすべてだった。悔しい思いが薄れたころ、アルベルトにお土産店から誘いが入った。「お前は服どころか身体にまで肉の匂いが染み込んでいるよ。そんな仕事より、うちの手伝いをしな。もっとマシな服装で稼げるよ。月5000円あげるよ。どうだい?」
「月の半ばで辞めれば、給料を半分損する」とコメントすると、「心配するな、その分、こっちで出してやる」と新札の1000円を2枚渡してくれた「良し、決めた」
辞めるの辞めないので揉めるのは嫌だから、そのまま昼食が終わったばかりで、まだ後片付けもしていなかったけど、すぐに部屋に逃げ戻り、荷物の片づけを始めた。そして扉が壊れてしまえとばかりに思い切り蹴飛ばして閉めた。いや、待て、ともう一度扉の所に戻り、ちゃんとカギをかけて外に出た。大家はカギを壊すのに苦労するだろう。すぐにアルベルトは新しい仕事のオーナーの部屋に移った。

今度の仕事は店員だ。飛行場の売店と町の店で働く。クスコの飛行場の店は、第1便が朝7時に着くので、それに合わせて7時には開店する必要がある。飛行場は町から4キロの所にある。主人の運転する車で家を出るのは6時半だ。
山の家にいたときは朝日とともに起きるのだから、朝の早いのは何も難しいことではない。クスコの飛行場は気流とかの関係で年中、午前中しか使われないため、リマ行きの最終便は11時半。その最終便が出ると店じまい。町に戻り、昼食を取り、昼休みの後、同じ主人の町の店で働く。この町もスペイン人の影響で昼休みが長く、2時間取るところが多い。このため、夕方に店が閉まるのは8時か9時ころ。その後に夕食を取るから、ベッドに入るのは毎晩、遅くなる。こうして「長い一日」の生活が始まった。

仕事自体は肉屋の時のように厳しくないが、慣れてくると物足りなくなってきた。1年もしないうちに言いようもない苛立ちがつのってきた。このままじゃ、どうしようもない。13歳のアルベルトは自分の将来を真剣に悩み始めた。彼のたどり着いた結論はまず英語を習得することだった。英語のほかフランス語もやれば、ガイドができるだろう。この辺でガイドと言えば収入も良いし、外国人といつも一緒に歩いているカッコ良い職業と思われている。
そして金を貯めて、この店の主人のように外国人向けの商売を始める。外国人の方がペルー人より金を持っているからだ。ここクスコでその店を増やしていって、その内、首都リマに出ていくだろう。
その時、自分は山の上のインディオと呼ばれる身分から抜け出せるに違いない。白人の女性と結婚し、アメリカ製の車を乗り回し・・・・女中も数人はいるだろう。自分の将来はそんな風になるのでは。日本で言うと中学生の年齢で、そう結論を出したわけだ。

夜の7時から英語学院のクラスが始まる。自分の将来への最初の一歩だ。店の主人に頼んで、その時間を許可してもらう。自分が英語を習えば、客へのサービスのレベルが上がると主張し、賃金をカットされないようネゴした。主人は陰ひなたなく良く働くアルベルトに目をかけていたので、その要求を受け入れた。
クラスは週5日間で、月曜から金曜日までだった。12段階に分かれ、一つのコースが1か月間。つまり順調にいくと1年間で卒業になる。ただ各コースの終わりに試験があり、合格しないと上には進めない。それで、もし途中でやめてしまわなければ、2年近くかかって卒業するのが普通だった。コース3くらいまではアルベルトにとっては易しかった。日常の挨拶など外国人と毎日接触している彼は難なくこなすことが出来た。クラスが終わってから部屋に戻って勉強した。

この部屋にも電気はひかれてなかったので、1か月分の給料を使って灯油のランプを買った。もちろん、母屋には電気があるが、納屋や倉庫には電気が来ていないからだ。今度ももちろん扉にはちゃんとカギを付けた。
お互いが信用できない町の人間はやたらにカギをつける。一つの扉に、5つや6つの鍵がつけられているのを見ると、それは不信の象徴であり、断じて安心のシンボルではない。アルベルトの村では扉に鍵をかける風習はないのだ。
善良な山のインディオも町に来れば1年で悪くなると言われるが、生活に便利な都市とは一体何と言う魔物なのか。

アルベルトは給料から貯金を毎月するつもりだったが、給料が上がったのにランプ・ラヂオを買い、さらにジャケットが欲しくなり、セーターや下着を買い、そして授業料を払うと、いまだにポケットの中には小銭があるだけだった、最初の給料を盗まれた時のように。
もう靴に穴が開いているのだが、まだそれを無理やり使って、恥ずかしい思いをしている。

第3章

その頃、もうアリシアは家にはいなかった。同じ村のホルヘの所だった。女の子が生まれイサベルと名付けられた。アリシアは赤ちゃんが生まれてから2日目には働き始めていた。この辺の女性はみんなそうだった。とにかく働かなければ生きていけない。それは結婚する前もしてからも同じだ。
人生の余裕と言うのは、この辺の人には縁のない言葉だ。死ぬまで働いて、働きぬいて、なおかつ貧乏のうちに死んでいく。それがこのあたりの人生だ。時折、うまい話が持ち込まれることがあるが、それに乗ろうとする人は少ない。
そんな例だが、隣の県のプエルト・マルドナードと言う町で金(ゴールド)が出たと言う噂が広がった。なんでも首都のリマから多くの失業者がそこに行って働いているとか、どこそこの村は集団移住したとか言われる。しかし、この村の人間は、どうせそんな話は長続きしないだろう、また親方にこき使われるのは嫌だと話し合い、村民の間で浮かれた熱は全く起きなかった。
またある時、アルパカ(アンデス原産のラクダ科の動物)を飼っている農家が百万長者になったと言う話も出た。農業主体の村と牧畜をする村とはなんとなく折り合いが悪く、アルパカ産品が超高値になった時も、この村ではアルパカを飼おうとする家はなかった。

つまり親父のやったように子供も生きると言うことで、インカ時代からその生き方はほとんど変わらない。あの三つの掟(盗むな、怠けるな、嘘をつくな)があるから、憲法も法律も警察さえも絵空事のようなこの村には平和がいつもあるのだった。事件と言えば、昨年の村祭りの時、酔った勢いで喧嘩が起きた。その時、けがをさせた方が被害者に羊を一頭贈って話がついたと言われる。 
酒を飲まないときは喧嘩は起きない。あきらめが良いと言うか、高望みをしないと言うか、さっぱり欲がないのだからそれが普通だ。

さてアリシアの一日は早い。赤ん坊をいつも自分のそばに置き、母乳を飲ませるかたわらに、掃除・洗濯・食事の日常仕事をする。今は野原に行く替わりに、はたを織り、羊毛から糸をよってセーターを編む。これは町で売って、現金収入になる。つまり休むことはほとんどなく働く。
夫の持っている唯一の財産らしいものはラヂオで、それを寝る前に半時間ほど聞く。囲炉裏のそばで二人そろって聞く時が至福の時間だった。電気のない家なので電池がすべてで、その値段は高かったから、一日30分が限界だった。アリシアはなかなか良い声をしていた。ラヂオから好きな曲がかかるとつい一緒に歌いだす。しかし夫がほめそやし,もっともっととせがむと黙ってしまう。そんな夫婦だった。
彼らの希望は牛を一頭、買うことだった。牛がいればさらに広い土地を耕すことが出来る。つまり収入が上がり、暮らしが楽になる。ここの人たちの欲望は、ごく慎ましいものなので、すぐにでもかなえられそうだが、もちろん現実はそんなに甘くはない。
アルパカを飼っているインディオの中には何と年収百万円ほどになる家族がいるらしいが、物価が極端に安いこの国では日本の大企業の重役クラスの年収と比較できるほどの値打ちだろう。しかし何が必要なのかよく分からないので、彼らの住むところには不要の自転車を買って、使えないので納屋にしまい込むこともあった。ピカピカ輝く金の指輪をおっさんがはめていたりするが、特に大きな意味はない。銀行に預けなさいと言われると恐怖で頭が壊れそうになるだろう。他人に自分の金を渡し、その代わりに一冊の通帳をもらうなんてとても彼らには信じられない。利子が年に何パーセント付くと言われて、たとえ何千円程度でも銀行預金をさせられたら、その男は銀行に金をとられたと村で言いふらすはずだ。クスコには飛行機で外人観光客が着き、高級ホテルに入る。世界のどこにでもあることだ。それがそこから少し離れた地区では、アリシア夫婦のように世界の動き・考え方とは全く異なった人生を生きているわけだ。

父親とアルバロは二人になってしまった家で、もともと大きな家でないから二人にはちょうど良い大きさなのだが、生活を続けていた。焼いていないアドべと言う日干し煉瓦で作られた家で、寒い地方だから窓はなく、たった一つの扉から光が入ってくる。窓がないと言うのはガラスがないからで、光を入れるため窓をつけるとたちまち風が入ってくる。
この村では一般農民の家だけでなく、昔の地主だった人の家にもガラスの窓はない。
ふと口を突いて出てくるのは当然だが、二人はここを出て行った姉弟のことは話さないようにしていた。そして話すことが少なくなったので、本来の仕事に打ち込んでいった。
夜になるとクイが部屋の隅から出てきて床を走り回った。それは食用ネズミで小さなウサギと言う感じだ。クイの奇妙な鳴き声に慣れない人は気になって眠れないが、二人にとっては子守唄も同様で、疲れた身体は深い眠りに落ちて行く。
筆者はクスコの山奥に遺跡探しの旅に出たとき、夜になって道路脇の家に雨を避けるため軒下で眠らせてくださいと頼むと、気にするな、家の中で寝ても良いと言われた。そして床で寝ているとそのクイの徘徊に目を覚ましたことがある。

第4章

さらに1年たった。アルベルトは身長も伸び、大人に近づいていた。ついに英語のコースを終えた。最後の担任の先生が「アルベルト君、多分、君が全コースを終えた最年少だ。おめでとう」と祝ってくれた。
飛行場の店は、かなりの部分が彼に任されていた。主人は店に来ても少しチェックするだけですぐに町に戻っていくことがあった。アルベルトは自分より年長の人間を店員として使っていた。自分で改良したノートに在庫と売り上げを記録し、管理を徹底化した。売れない商品は町の店に戻し、商品の配置を考え、客が入りやすいようにした。もちろん目立つ場所に売れ行きの高い商品を並べる。各国語で書かれたポスターを店頭に並べ、彼自身、あいさつ程度なら数か国語を話させるようになっていた。

給料も上がって1万円になった。正直で有能な彼を見込んであちこちから声がかかった。一番熱心に誘ってくれた人を新しい主人にしようとしたら、今の主人が慌てて給料を一気に1万5千円にしてそれを防いだ。最低賃金は新法案で7千円になったが、その2倍以上だ。しかし普通の店員は昔のアルベルトのように部屋代とか食費をひかれ彼の年齢の下働きの少年は5千円が相場だった。アルベルトがいかに高給を取っているかが分かる。もう苦労しなくても服や靴は揃えられたし、食事ももう主人の食べ残しを食べると言うことはなくなった。レストランで好きなものを注文できるわけだ。部屋も昔と違って、同じ家だが、納屋でなく母屋に入ったのでちゃんと電気もある。わらのベッドからちゃんと洗濯したシーツがかかったベッドで寝ていた。

飛行場にある彼が働いている店の隣の店でマリアと言う娘が働いていた。姉のアリシアにどことなく似ていた。インディオの女の子らしく、色は浅黒く目はパッチリしていた。背はそれほど高くはない。今はそんなに太っていないが、肉付きは良い方で、そのうちあの「ケチュア族のおばさん」タイプになるだろう。それはどっしりとし、何事にも動じないと言うことだ。一般にこの地方では太った女の子に人気がある。どうしてかと聞くと、夜の寒いこの地方では太った女の子の方が一緒にいて暖かいからと言う。冗談なのか本気なのか。
昼食を一緒に飛行場の横のレストランでとったり、町の店の近くの食堂で食べるようになった。アルベルトの初めてのガール・フレンドだ。マリアは無口の子だったので、アルベルトが話すことが多かった。マリアも彼と同じように付近の村出身なので話題は共通だし、話していなくても安心できた。 
ある日、近くの丘にピクニックに出かけた。クスコは遊びに行くところが極めて少なく、せいぜい映画館くらい。男同士なら玉突きに行くこともある。ディスコもあるが、入場料が高いので金持ちしか行けない。ショッピングの楽しみと言っても特にないし、喫茶店で安いコーヒーを飲むのがデートコースだろう。そのためピクニックには頻繁に出かける。家族そろって近郊の丘に登りパーティをしているのによくぶつかる。ある人曰く「彼らは一生ピクニックをしてるようなものだ」これは言いえて妙だ。

さて二人は丘の頂上に腰を下ろし、下にクスコの町を見ながら食事を始めた。今日はマリアがサンドウィッチ、卵、焼肉とご飯を用意した。おまけに魔法瓶にコーヒーが入っており、果物のデザート付き。なかなか豪華だ。
アルベルトは色気より食い気で、マリアには興味を示さず、黙々と食べていた。
おまけに口を開いて言うことが「俺は出世する。金持ちになる」だった。
「そんなに威張ってないで、もう少しのんびりすれば?」とマリアが口を挟めば、俺はお前とは違うんだと怒りだすしまつ。二人は同じ年だが、マリアの方がずっと大人びていてアルベルトが姉ちゃんに甘える弟と言う雰囲気だった。そこが可愛いんだけどとマリアは考えることもあった。
アルベルトは「勉強第1、デートはその次」と言うとマリアは「分かっているわよ。言わなくても」と笑った。付き合いの最初の頃は二人は甘いムードに浸ることはなかったわけだ。
アルベルトは一層、自分の計画に打ち込んでいった。仕事で成果を上げること、語学の習得を進めることだった。
朝6時起床。飛行場の店に7時前に行く。昼食後は町の店に入り6時まで働く。そして夕食を取ってから学校に行く。10時に戻ってきて12時ころまで勉強。そしてシャワーを浴びてベッドに入る。彼は自分に課したペースを崩さなかった。
自分の目標は自分の生きがい。それがなければ何の進歩もない周りの人間と同じになってしまう。十年一日のごとく、汚い服を着て、いつも金がないと言いながら酒を飲んでくだを巻いている。そんな大人になりたくはない。
と言うことで、自分を機械のように扱った。多少熱があっても、身体がだるくても自分の日課は崩さなかった。
ペルーの国技、誰もが熱中するサッカーにも誘われたが、ほとんど興味を示さなかった。
お前は付き合いづらいと言われても気にもしなかった。この辺の子供は12、13歳でもう味を覚えるのが普通だが、酒や煙草もやらず、映画も語学の勉強程度、たまにマリアと外に出るくらい。女のところに遊びに行ったこともなく、毎日日課の通りすごした。

フェルナンドがたまにフラッと現れてひやかして言う。「おぅ、また勉強かよ。お前はすごいな」彼と会話したいとは思わないが、彼が村に帰った時の様子を教えてくれるのは、うれしかった。姉ちゃんが結婚したこと、親父とアルバロはまだ元気に働いていることから、しばらくして姉ちゃんの子供が生まれたことや夫婦で牛が欲しいと言っているらしい。兄のアルバロは、自分が卒業した小学校に行って、手伝いをしているらしい。何しろ全校1クラスだからひどい授業で兄ちゃんが低学年の子供の相手をしているだけで、ペドロ先生は上級生のクラスが教えやすくなる。兄ちゃんらしいことだ。
フェルナンドは家出同然で村を出たのによく村に戻っているらしい。財布に金が入っているので、村に戻っても威張っているようだ。こんな子供が財布の中に金を持っているなんて、村の人は変に思わないのかとと訝しかった。
16歳を過ぎたとき、フランス語のクラスも半分終えていた。すべて彼の計画通りに進んでいた。しかしある時、彼はガイドになれないことが分かった。それは彼が観光局に質問に行くとガイドの国家試験の受験資格は大学卒業と言われたからだ。
「だってガイドで大卒じゃない人もいるではないですか?」「昔はね。今は法律が変わったんだよ。国を代表して外国人観光客を案内するのだから、教育のない人間では無理なんだ」そう聞くと身体中が悔しさに震えた。なぜ受験資格なんているんだ。試験に受かればそれで十分じゃないか。語学でも歴史でもどうして自分で勉強したことを認めてくれないんだ。大学まで行けるのは金持ちの家しかないだろう。

悲しみより憤りが数日続いた。ところが幸運は意外と早く訪れてきた。
朝、いつものように店に立っているとクスコ旅行社の茶色の制服を着た男がやってきてアルベルトに話しかけた。その男は毎日飛行場に来ているから彼とは顔なじみだった。
「ちょうど今から市内観光をするグループがあるんだが、そのガイドが腹痛で倒れた。そこで君にその仕事を頼みたいんだ。君は英語が話せたよね」
アルベルトは胸を張って言った。
「もちろんやらせてもらいます、やりますとも」
その男は茶色の自分のブレザーを脱ぐと彼に渡した。アルベルトはブレザーの襟を正すと、店の中を向いて言った。
「店番、ちゃんとやれよ。ずるしても直ぐに分かるぞ」
自分より年長だが部下のフアンにそう言って、観光バスに向かって歩き始めた。既に客の乗り込んだ観光バスに入る前に考えた。
「まず、いらっしゃいませ。ようこそクスコへ。それから自己紹介、そのあたりでバスは走り出す。クスコの町の大まかな説明をして・・」
旅行社の人間が耳元でささやいた。
「今日が初めてですとか、ピンチヒッターなんて言うんじゃないぞ。ベテランのような顔をして振舞えよ。どうせわからないんだから」
「はい、わかりました。ベテランらしくか・・・」よし堂々と行くぞ。

彼は2時間ばかりの市内観光を案内した。ここに住んでいるインディオの生活ぶりの話に客が興味を示したので、如何に彼らが働き者か話した。貧乏なせいで汚い身なりをしているが、彼らほど正直な人間はいない。そう言った後、逆にきれいに着飾っている人間が薄汚れていることもあると言った。彼の口調には力がこもっていた。
「それでは皆さん、ありがとうございました。今日の市内観光を終わらさせていただきます。明日も良い旅を続けられますようお祈りします、本日はありがとうございました。ガイドはアルベルトでした」
彼の結びの言葉に拍手が起きた。全員が彼と握手をしてバスから降りて行った。
最後に降りたグループの添乗員が握手をしたとき何かを握らせた。手の中に1000円札が入っていた。これがチップか。アルベルトはそれを大事にポケットにしまいながら思った。運転手が今日の給料は後で事務所に取りにおいでと教えてくれた。
「急だし、初めてだったのに良くやったな。チャンと事務所に通知しておくよ」と笑いながらほめてくれた。
借りたブレザーをバスにおいて外に出た。

バスから降りると、飛び上がりたい喜びが体中をかけ巡る。やったぞー。道を全力で走った。道路の真ん中を車の間をすり抜け、向こう側の公園に入ると、ベンチを飛び越え、めちゃくちゃ走った。犬が驚いてギャンギャン吠えながら追ってくる。芝生にへとへとになって寝ころんだ。空が何やらにじんで見えにくかった。
「僕はできる。資格なんか問題ではない。僕はできた」

バスに乗って空港に戻ってくるともう正午に近かった。店の前に主人が立ってアルベルトを待っていた。
「おい、どこに行っていたんだ」めったに見せない顔をしていきなり怒鳴り始めた。
「ちょっと信用すりゃ、つけあがりやがって。このインディオめ」
アルベルトは身体が固くなって言葉を失った。なんと言うことだ。
「おまえ、1000円、ちょろまかしたな。売上帳と金庫の中の現金の差が1000円だ。さっさと出しやがれ」
アルベルトは一言も口がきけなかった。何のことだかわからない。
主人は帳面を広げ、「これはお前が作ったノートだ。正直面しやがって、危ないところだった。このまま行きゃ、幾らやられたか分からないところだ。ホラ、よく見ろ」ノートをアルベルトにたたきつけた。
「今までの売り上げは25300円。ところが金庫には24300円しかない。計算に間違いはない。おい、フアン」
助手の名を呼んだ。「お前、アルベルトのポケットを調べろ」
「ご主人様。ここにその1000円があります」
アルベルトのポケッㇳからその紙幣を取り出した。
「違います。それは私のものです」
「盗んだから自分のものと言うのか、お前は。返せ、それを。そしてここから出ていけ。もう二度と俺の目の前に現れるな。次はおまわりを呼んでやる。この飛行場の中のどの店でも働けないと思いやがれ。さぁ行け」
主人は大げさな身振りでアルベルトを店から無理やり追い出した。ちょうど店を閉めるところだったので、周りの店から好奇心の眼で無遠慮にのぞかれた。マリアは出かけているのかいなかった。彼女がいたらなぜアルベルトを疑うのかと大声を出して抗議してくれただろう。全く弁解の余地なくアルベルトは飛行場から街に戻るバスに乗せられてしまった。

行く当てもなく町に戻り、さっきの公園に寝転んだ。自分の人生がこうも簡単に他人に動かされるのが惨めだった。どうして自分の足で立てないのか。どうして信用できない他人に、こうも無残に打ちのめされるのか。
太陽が大きく西に傾き始めたころ、芝生から立ち上がると行きつけのレストランに入った。食べ始めるといくらか落ち着いた。空腹だったのだ。
すっと横に誰かが座った。フェルナンドだった。彼はあれから何度もアルベルトに自分の仲間になれと言いよってはアルベルトに断られていた。アルベルトのように身なりが良くなってくると、なおさら相棒には適当なのだと言う。俺が責任を取るから仲間になれと言う。もちろんアルベルトはそんな気になれない。
「おい、聞いたぜ。あっさりやられてしまったじゃないか。お前もカッコをつけている割には甘いもんだな」
彼はアルベルトの返事を聞かず続けた。
「お前、お金をごまかしたと言われたんだろ。どうしてそのノートを調べなかったんだ。第1、お前、今日の午前中はいなかったんだろう。まぁ、さぼっていたとしても。そしたらそのノートを見れば誰の字か分かるじゃないか。それくらいわかりそうだけどな。ネコババあいつだろ。あいつはお前が若いのに頭が良いもので、主人に重宝されている。それで、前から今日のことを用意していたのじゃないか?狙ってたんだよ。妬んでたのよ」
「もう遅い」アルベルトはそう気が付かなかった自分の迂闊さにがっかりしたが、もう飛行場に行く気はしなかった。

「当てがないんだろ。俺の所に来いよ。泊めてやるよ。古い友達じゃないか。飯が終わったら、お前の泊まっているところに荷物を取りに行くのに俺は付いて行くよ。面倒があっても俺がいれば大丈夫だろう。荷物を取り出したら、俺の所に行こう。今夜からもう心配ないぜ」アルベルトには他のあてはなく、そう言われると彼の提案に乗るしかなかった。
そこはベッドは一つしかなく、アルベルトは床に寝た。山の上の我が家のような土間ではなかったけれど、背中の下が固いのは何年ぶりだろう。フェルナンドは直ぐに寝入ったが、アルベルトは寝入れなかった。
マリアはどうしているかな?もうこの話聞いただろうが、彼女は午前中いっぱい空港の店にはいなかったようだ。こんな時こそ彼女のそばにいたい。彼女は誰よりも自分のことを信じてくれるだろう。彼女と何故連絡が取れなかったのか悔やまれた。
さて・・・これから自分はどうなるのか。この社会も、周りの人間も汚れたやつばかりだ。俺がまじめに生きて行こうとするのを邪魔するやつばかりだ。俺はそれらを叩きつぶしたい。この周り中全部だ。
いつかアルベルトも眠りに落ち、夢の中で親父が小さなアリシアとアルバロの手をつないで並んで歩いていた。自分一人が遅れていた。呼んでも誰も振り返ってくれない。走っても前の3人に追いつけない。自分は結局一人なのかと、夢の中とは知りながら、考え込んだのを、目が覚めてからでも覚えていた。それでも、やっぱり3人の後を追っていたアルベルトだったのだが。

(続く)