サン・ペドロ・デ・アタカマの旅

2020年1月    
妻とチリ北部の町サン・ペドロ・デ・アタカマに行ってきた。サン・ペドロと言うのは聖ペドロと言う意味で聖書に出てくる聖人の名前。つまりラテン・アメリカの国にはどこにでもある町の名前だ。それに付け加えてアタカマにあるとしたのが、この町の由来になっている。つまりアタカマの聖ペドロの町と言う意味だ。以下サン・ペドロと省略する。
チリ北部の古い文明はチンチョロとアタカメーニョが良く知られている。最北部アリカを拠点にしたチンチョロ文明のミイラはエジプトより古い世界最古のものと言われることもある。                                        このサン・ペドロ地区にも近くを流れる川の水を利用して人が住んでいた。町の北にあるキトル城は12世紀のものらしい。もっともその後チリに侵入してきたインカに征服されている。

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サン・ペドロ・デ・アタカマの中央広場
サン・ペドロに行くにはサンティアゴから飛行機でカラマに飛ぶ。2019年のチリ国内線で、一番乗客が多かったのがそのサンティアゴ-カラマ便だった。それは近くに銅の鉱山がいくつもあり、そこに働く社員・労働者が首都からの移動に使うわけだ。私も鉱山に関連した仕事をしていた時期が長くあるのでカラマには200回ほど飛んでいる。
サンティアゴからカラマに行く飛行機がひどかった。夏で外気温30度を超える日が続くサンティアゴなのに飛行機に入るとスチュワーデスがジャンパーを着ていた。理由はわからないが不思議な気がした。飛び始めると室温が低く寒い。多分15度くらい。後ろの座席のおばさんが暖房を入れてくださいと頼んだほどだ。多分、その飛行機は室温のコントロールができないので係員は最初から上着をつけていたわけだ。寒い飛行機で1時間半ほどの飛行。仕方ないからコーヒ-を飲んで身体を温める。
朝8時出発の早い便だったが、無事に到着。空港に降りるとサン・ペドロ行きのバスの案内人が待っている。一人当たり片道1万ペソ、往復なら1万8千ペソとか。(為替レートは1ドル750ペソ)
サン・ペドロには30年ほど前に行ったことがあるがどう変わっているだろうか。
10人ほど集まると軽バスは出発した。遠くに鉱山が見える。懐かしい。そこは同地区にある鉱山の一つだ。
走り始めると周りは砂漠で緑は全くない。風力発電に使う風車が並んでいる。昔にはなかった風景だ。目的地までの距離は100キロほどで、1時間半ほどで着くらしい。90キロほど走ったところで下の方にオアシスが見えた。緑の町、サン・ペドロの町が近い。その風景は私の記憶の中に残っていた。
町に近づいて乗客が少しずつ降りていく。私たちは町の中心のホテルだったので一番最後だった。 
ところで最初に通過した所はポブラシオンと呼ばれる住宅街だ。労働者が住んでいるところで、話を聞くとかなりの家が不法建築とか。つまり空き地に勝手に家を建てて住み着くわけだ。
そこが新市街、元の町が旧市街ということになる。距離は2キロほどで、その間をつなぐバスが走っているがサービスは夕方までしかないなので新市街から旧市街に来て働く人は多くが自転車を使っているとか。
それは30年前にはなかった風景だ。つまりこの町に多くの観光客が訪れるようになり、元の町にはもうスペースがなくなり、近郊の空き地に家が建て始められたということになる。発展と貧困が重なっているわけだ。新市街には緑の木はほとんどない。そこを歩きたいと言う気は全くしなかった。
今の人口は5千人だが、多分、30年前は千人ほどだったのだろう。

空港から2時間ほどかかって私たちもホテルに入った。ディエゴ・デ・アルマグロと言うホテルだった。インターネットで選んで予約を入れたところで、もちろんホテルの内容はよくわからない。高層ビルの大きなホテルなどここにはないから、無理なことは言えないが、長屋のように各個室が並んだ仕組みのホテルだった。部屋が結構広く、大きなプールが目の前にあり、緑のあふれたホテルの雰囲気は良かった。
荷物を置いてすぐ外に出る。もちろん右も左もわからないから、ホテルの場所を忘れないように気を付けながら歩き始めた。
店が並んでいた、隙間もなく。昔はメーン通りにも民家はあったが今は商店だけ(それでも1軒だけ大きな家があった)
旅行代理店、レストラン、両替所、宿泊施設と観光客向けの店が続く。薬局もあったし洗濯屋も。長い旅で服が汚れていればここできれいにできる。貸し自転車屋も何軒もあった。銀行も見つけた。
先ずはその通りの端まで歩く。その通りのホテルの反対側にこの町の中心広場があり、そこに面して町役場、警察署、教会が建っている。政府の旅行案内所やアルコール中毒者の療養所もあった。       
公園前の道からずっと遠いところにこの地方のシンボルになっているリカンカブル火山が見える。
その広場に面してレストランがあった。昼食の時間で店の外にテーブルが並んでいて多くのテーブルに食事をする人が座っていた。人気があるのだろう。私たちもそこに入った。
ところが大失敗、味も量もさっぱりだった。テーブルの下に犬が寝ていたので邪魔しないように座るのに苦労した。
その後、旅行代理店を捜す。そこで月の谷と間歇泉エル・タチオのツァーを申し込む。両方を合わせて2人で6万4千ペソだった。80ドルちょっと。
そこまで終わったのでホテルに戻って休憩する。中心通りから3分、最高の場所だ。
夜、小雨になる。次の日も、次の日も雨。結局4日連続の雨だった。世界で最も乾燥した地区と言うのはいつのこと?
夜のレストランは満足できた。鶏肉と野菜サラダが大きな皿に溢れるほど。にっこり。
食事に関して言えば、日本・中国の料理はなかったが、チリ、ペルー、イタリア風料理があっていろいろ楽しめた。個別料理ではなく「メニュー」を頼むと前菜、メーン、デザートが出てくるからおすすめだ。私たちの入ったレストランは一人7千ペソから24000ペソだった。
その晩はゆっくり休む。

2日目の朝はホテルでのんびり。朝食の後、散歩。メーン通りの後ろや近くの隣の道を歩く。
昼食の後、昨日契約した旅行代理店の事務所に行く。そこにツァーの客が集まり、バスの駐車場へ向かう。14人のグループで、チリからは私たち2人だけ。あと全員が外人だった。ブラジル人が一番多い。カラマへ行く道へ入り10キロくらいのところが月の谷公園入口になる。そこで入園料を払う。一人3千ペソだったが、私は老人割引で2500ペソ。ちゃんと地下鉄の老人パスを見せる。老人の外人観光客はパスポートを見せていた。
公園に入る。まず3人のマリア像。石がマリアさんのように見えると言うわけだ。ここは昔は海底だったのでアタカマ塩山と言われる通り塩であふれている。ほとんどが塩の大きい石を見つけ、ポケットに入れた。今、それは私の部屋に飾られている。
グループの中に二人のスリランカ人夫婦がいて話を始める。彼らはもう長い間イギリスに住んでいるとか。
月の谷を上から見るため丘に登る。駐車場にバスを止め歩き始める。ガイドが登りは全員一緒に、帰りは各自が自由に歩きましょうと言う。約1時間で丘の上に着く。谷が下に見える。皆、カメラで写真を撮りまくる。
往復2時間近い歩きだったが、妻も文句を言わず最後まで歩いた。ちゃんと歩けたねと言うと、「私の脚力を全然信用していないのね」と言われてしまった。しかし老人も多いグループで2時間も歩くのはどうだろう。
その後夕空を見るために違う丘に向かう。しかし、問題が出てきた。強風と軽い雨だ。二日連続の雨になった。私はバスの中で待っていますと外には出なかった。そんな天気で日没を見て何が面白いのと言うわけだ。ところが少し雨が収まったので、強風は続いたが、私も外に出て、沈みそうな太陽を遠くに見た。そこも谷の上で断崖絶壁になっている。スリランカ人に「日本は日の出る国、チリは陽が沈む国だね」と言われる。なかなかセンスが良い。彼らは日本にも行ったことがあるとか。
日没を見てツァーは終わり街に戻ってくる。ところがここで悲しいニュースが入った。ガイドが明日の間歇泉のツァーを申し込んだお客さんは事務所に来てくださいと言う。                   
二日続けて雨が降ったことから、道路が濡れ、間歇泉に行く坂道で4輪駆動車は問題ないが、観光客を乗せた小型バスは通行規制になった。翌日、朝4時半にホテルに迎えに来ることになっていたのに警察の規制でツァーは中止。がっかりする。
その日の夕食をレストランで取り、ホテルに戻るとき強い雨降りになった。私たちは傘を用意していたが、他の観光客は全員ずぶぬれになって各自のホテルに戻った。

この地区で見るべき観光地は月の谷、間歇泉エル・タチオ(海抜4300メートルだが)、それに何カ所かの高原の湖だろうか。仕事でボリビアに行った帰りに飛行機でその上空を飛び、きれいな湖があったのを思い出す。ほかに温泉もあるとか。            
さて、どこの旅行代理店にも日本人に最高の人気のボリビアのウユニ塩湖の旅があった。2泊3日でバス代は往復で12万ペソだった。
スポーツとしては近くの山登りがある。それらは4千、5千、6千メートルの高さの山だ。高度5900メートルのリカンカブル登山は1泊二日でガイドがついて25万ペソだった。その他ではサンドボード。スノーボードのようにボードを使って砂丘を滑り降りる運動。そのボードを持って歩いている若者によく出会った。
私は旅先でもいつもマラソン練習をするが、今回はなし。それはこの高地(2400メートル)で走る気力・体力がないからだ。思い出すが、昔ボリビアのラ・パスでマラソン練習をはじめたら、本人の私は走っているつもりなのにその横を高校生が速足で歩いて追い抜いて行った。さすがに恥ずかしかった。
つまりこれからもわかるが、ウユニの塩湖に行くのにボリビアのラ・パス経由よりこのチリ経由の方が無理なく行けると言う証拠になる。そして距離がここ経由の方がはるかに短いのも確かだ。

お土産物売り場には何カ所も入った。私はあまり興味はないが嫁さんはいろいろ探して買っていた。ところで売られている民芸品は隣国ペルー・ボリビアのものとよく似ている。で、店員に「これどこから来てるの?」と聞くとボリビアと返事があった。ウユニのツァーでボリビアに入った車に乗せてお土産物をチリに運び込むのではないかと想像した。コスト軽減のため。
ここの子供はかわいい。どの子もかわいいと思った。多分、サンティアゴの子供は大人っぽいしぐさをするが、ここの子供は自分たちは子供だと表現しているからだろう。民芸品売り場には働くお母さんの側にいつも子供が遊んでいた。その子供が可愛くて可愛くて。
それから野犬が多い。どの通りにも数匹の犬が寝そべっているか歩いている。レストランにも入ってくる。誰かが食事を与えているのだろうが、他のどの町より犬の数は多い。野犬管理は誰もしないのかな?私はサンティアゴでマラソン練習中、2度も犬にかまれてけがをしているが。
この辺りには先住民アイマラケチュアの人が多いと言われるので、何人かに聞いてみた。ほとんどアイマラ系の人だった。ケチュアインカ帝国を作った人種でほとんどペルー人、アイマラボリビア系の人がほとんど。
しかし今から140年ほど前の太平洋戦争がなければ、ここはボリビア領土だったからアイマラの人が多いのは当然だ。彼らは戦争に負けて、チリがここを領土にしたので、ある日突然ボリビア人からチリ人に国籍が変わったことになる。太平洋戦争とは1879年に始まったチリ対ペルー・ボリビアの戦いを指す。その後、サンティアゴなどからチリ人が入り込んできたのだろう。確かに歴史はどうなるか分からない。
ホテルでカウンターの2人と昨年10月以降の暴動騒ぎについて長々と話をした。彼らはテレビのニュースでは見ているが実際にどうなっているか感じていない。この町のあるアントファガスタ州の州都アントファガスタではデモ隊と警察の衝突は日常茶飯事だが、その暴力グループがここに来て、このホテルで略奪・放火をすれば復旧まで2,3ケ月は彼らの仕事はなくなるのは間違いない。そういう話をしてもあまりピンとこなかったようだ。

間歇泉のツァーがなくなったので時間が余った。それで繁華街だけでなくこの旧市街の裏の方も歩いた。幼稚園があったり、パン屋があったり、土地の人の暮らしが見える。ここに来て数年と言う人が多い新市街と違って、旧市街ではここで生まれて育った人の家が並んでいるのだろう。
そこにサンティアゴのような派手な落書きはなかったが、それでも「出て行け警察」などと書かれていた。それを見て私はにっこりした。ここにもその系統の人間はいるが、警察と正面から衝突する力はないわけだ。聞いてみると暴動騒ぎは今まで一度もないが平和なデモはあったらしい。

最終日、ホテルに小型バスが迎えに来てくれて飛行場に向かう。その日は飛行機の中も寒いことはなく無事にサンティアゴに戻り家に着いた。楽しい旅だった。