チャチャポヤスの旅  その3

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チクラヨ市の中央広場です
バスは定刻夜8時15分にチャチャポヤスを出発し、きっちり翌日朝6時15分にチクラヨ到着。ピッタリ10時間。違うバス会社を使ったのに往きと同じく戻りも10時間の走行で定刻に到着するのは素晴らしい。ペルーのバス会社の運行基準は非常に高いレベルにあるのは間違いない。夜行バスで、3時ころ一度トイレに行ったが、一番前の席だったので他の人にそれほど迷惑にならなかったと思う。
バスターミナルに到着し、バスを降りて自分の荷物を渡してもらう。タクシーの運転手が近づいてきて、ホテルまで乗らないかいと聞く。ネットでこの町の二つのホテルを調べておいたので、それを言ってどちらか近い方に連れて行ってくれと頼む。彼はもっと町の中心に安くてよいホテルがあるからそこに行こうと聞いてくる。もちろん自分で調べたホテルを知っているわけではないから彼の勧めるホテルに変えた。結構走ったのにタクシー代は2ドルと少し。チリよりずっと安い。
そのホテルに着いたのは6時45分だったのに、鍵を渡してくれたので中に入れた。シャワーを浴びて、髪の毛も洗ってすっきり。そのあと少し休養。ホテル地下の食堂で軽く朝食。ホテル代には朝食は入っていなかったので自分で払う。3ドルくらい。荷物の整理をして街に出る。
来るとき通過した中央公園に行って見る。ホテルから10分ほど。ベンチに座っている人は朝早くから他にすることがないと言う感じの老人ばかり。彼らがベンチを独占しているようだった。そうか日本も老人が目立つが、ペルーも老齢化が進んでいるのかと感心する。新聞を買ってそこに座って読み始めた。私も彼らと同じ仲間だ。
9時過ぎにラタム航空の事務所に行く。チリに戻る便の搭乗券をもらうため。リマ行きのボーディングパスはすぐに入手できたが、リマ・サンティアゴ券はもうしばらくしてからと言われる。つまり出発の48時間前ということになる。じゃ、その間にこの町をあちこち歩こうと散歩を始める。何と2日前に入ったスーパーマーケットの近くに来たので、そこに入り、ケーキを買って店内の椅子に座って食べる。何もしないと言っても歩きまわっているから疲れる。こうして椅子に座って周りを見ながら何か食べるのも楽しみ。
ここは日本レストランがないようなので昼・夜と何を食べるか考える必要がある。ペルー料理は素晴らしいと思っていたが、今回の旅ではそれほどではなかったので、昼食はイタリアン、夕食は中華にした。今までなら安い店はないか探したが、最近はその必要はなくなっている。もっとも見かけで入っても中身が良いとは限らないが。ペルーで肉・魚料理を頼むと野菜サラダに加えてポテトチップがついてくることが多い。私は油の料理は苦手なのでご飯を頼むと、どこでも問題なく変えてくれた。料金を払うとき、10%のチップを置いたが、ペルーで紙幣はすぐにわかるのに、コインはどれも同じに見えて使いづらい。目が悪いからかな。
道を歩いていて、若いカップルが小さな子供を連れて乞食をしているのを見かけた、それが少しでなくどの通りにも。ペルーはチリより苦しいのかと思ったが、そのうちの一組が手に紙切れを持っていて、それを見ると「私たちはべネスエラから来ました。皆さんの暖かいご支援をお願いします」と書いてあった。そうか、そこから逃げ出してきたのか。こんな生活をして、旅を続けてもっと南に行くのだろう。目的地はチリかもしれない。私も彼らと同じように大昔、エクアドルからペルーに入り、この街を通ってリマに入ったのが思い出される。
ペルーに来て新聞、テレビのニュースで現状を見ているがパッとしない感じがする。もっともそれは政治のことで経済的にはペルーは順調に成長し、チリよりはるかに高いラテンアメリカでトップクラスの成長率を今年も来年も予想されている。
このチクラヨで犯罪防止にドローンを飛ばして空からチェックをする仕組みが始まると報道されていたが、犯罪の多いサンティアゴではもう2年も前からそれを使っている。悲しい現実。それからクスコは凶悪犯罪が増えているとテレビで報道されたが、チャチャポヤスではそんな話は全く聞かなかった。クスコも昔はそんな犯罪はなかったから、観光客が増えて街が変わったわけだ。犯罪とは無縁のようなチャチャポヤスは良かったと思い出す。
国の成長・変化はもちろん各個人に影響するが、どこの国でもどんな人間でも実力・努力と運がなければ楽しく生きていけないのは確かだろう。
不思議なのはこの街には薬局・携帯電話の販売店が多い。どの道にもそれが並んでいる。それから市場にも行って見た。多くの人がそこを歩いていて、活気があった。それからもっと不可解だったのは両替屋の前に両替をする個人が多数並んでいること。一人や二人でなく20人以上も。そんなに仕事があるのかな?その中の一人と話をしたら個人の両替は違法だが取り締まりはないとか。チリでも同じことをする人間はいるが少数だ。
それからこの街には信号が少ない。ここは人口55万人のペルー北部で最大の街なのに。それを現地の人に聞くと、ここでは人は信号を守らないからね。車も通行人も。だから信号があっても無くてもあまり変わらないんだよって。チリとはかなり違う考え方だ。
一日ゆっくりチクラヨの街を歩いたので、次の日、観光ツア―に入って、プレインカの遺跡を見に行くことにした。パンフレットを見ると8つのプログラムがあったが、そのうちのシパン王の墓と博物館巡りを選んだ。
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シパン王の墓
ゆっくり眠って翌日、気持ちよく起床。このホテルの朝食はあまり良くなかったので、近くのもっと大きなホテルに入って朝食をとった。果物・セリアルを食べるのが私のいつものスタイル。
指示されたところでバスを待つ。その小型バスはあちこち寄って観光客を拾い1時間以上してからツァーに出発。最初からすっきりしなかったが、ルートの設定に問題があり、何やらあちこち回って目的地まで時間がかかりすぎる。無駄な事だ。
チクラヨは農業で成り立っているが、途中、壮大な砂糖キビの畑の横を走った。農業に関してはチリとはイメージが違う。最もチリの命綱の銅鉱山はペルーでも重要産業で、人件費などコストがチリより低いので外国の銅投資はペルーに目が向いている。
さて午前中は王墓の発掘場所見学だ。シパン王はモチェ文化の大王の一人。ペルー北海岸の一番古い文明で紀元100年から700年ころと言われる。モチェの太陽のワカ、月のワカと言われるピラミッドはよく知られている。
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王墓のある砂の小山
シパン王の墓から発掘された副葬品はシパン王博物館に展示されている。そこはペルーで最も有名な博物館の一つになっている。銀・銅の光輝く装飾品が並び、見る人を驚かせる。彼は南米のツタンカーメンと言われるゆえんだ。それとは全然関係ないが、インカの石組みはエジプトのピラミッド周辺の石組みと同じ様式と言うのが不思議だ。そこのほかに10カ所以上も穴が開けられていたが、発掘されたものは博物館に運ばれ、墓の中には本物と似たようなプラスティックものが置かれている。
しかしその目立つ金銀より私の好きだったのは土器だ。この近辺の文明の土器はまさにペルーでナンバー1と思える。何よりデザインが素晴らしい。動物をモデルに作った土器は現在でも評価されるはずだ。山岳地帯の文明国にはこの土器のすばらしさはない。インカにもチャチャポヤスにも。
面白い話は、その作業は盗掘者が穴を掘って遺品を探すことから始まり、それを考古学者が取り上げた?ことになる。墓をワカと言うので盗掘者はワケロと呼ばれるが、盗掘者は生活がかかっているから作業の速度・効率がすごいのだろう。博物館の展示品もワケロが取り出したものが多いとか。
王の墓には王の遺骨のほかに家族・部下など多くの遺骨が埋められ、王が死の世界に入っても困らないよう食料・水などが入れられた土器も多く埋まっていたとか。同時に墓に入れられた人は死んでいなかったのだから殉死になるわけで、それが決定した時の苦しみはどうだろう。
モチェの次にシカン文明が起こり、それは800年から1300年ころと言われる。その発掘物はシカン博物館に収められている。モチェ文明のシパン大王と次のシカン国は響きは似ているが全く別のもの。そして最後にチムー文明が起こった。それは1000年から1476年。チムーがこの辺りを全部征服し大きな国になったが、チャチャポヤスと同じくインカに滅ぼされたわけだ。
昼食は、ツァーの仲間とレストランに入ったが、今回は各自が支払うことになった。肉料理を注文したら、なんと皿にあふれるほど大きい肉が運ばれてきた。食べきるのに疲れるほどだった。
午後は博物館見学だった。それも3カ所も。最初のシパン王博物館は興味をひかれたが、同じような展示品を見ると最後の方は少しずつ興味が薄れてしまった。                    
考古学博物館で多くの装飾品が見られるが、金・銀・銅の金属がピカピカと輝いている、遺跡から掘り出された時は地中に長い間埋まっていたわけで青黒かっただろうが、それをきれいにするとオリジナルのピカピカに戻るわけだ。モチェでは鼻の下に宝石を加えた飾りをつけていたが、その意味がよくわからなかった。それをつるすと鼻が痛くならないかな?
私の好みだが、最終的には山側のクスコやチャチャポヤスに比べると海岸側のチクラヨ地区の遺跡は今一つだった。
ところでどのツァーもバスに乗ると名前・年齢・身分証明書番号を書かされるが、私はチリの身分証明書を使った。それをいつも財布に入れているから。それから60歳以上の人は老人割引があり、例えば博物館の入場料が10ソーレスなら老人は4ソーレスなる。それでその分がいつも私に戻された。                                              
やっと街に戻ってきた。7時ころだった。中央広場のところで全員がバスから降りる。私は歩いて10分でホテルにつける。
昼に肉を食べすぎたので、レストランに入っても他になにも食べる気がせず、果物サラダを注文。結構大きい皿に果物が山積みだったのでニッコリ。ホテルに戻ってコーヒーを飲む。

こうしてペルーの旅は終わり、明日チリに帰国になった。ちゃんと戻れるかな?
朝早く、ホテルからタクシーで空港へ。国内線なので混乱は少ない。搭乗券を持っているので手続きは簡単。荷物をチクラヨ空港で預けたが、それはチリまで運ばれるとか。つまりリマで手荷物以外は税関でチェックされることはない。それから国内線に乗るとき、老人優先とかで並ばずに乗り込めた。生まれた初めての経験。不思議な気がした。
リマの国際線への乗り口が分からずアチコチ探したが、やっと見つかり入管手続きを終え搭乗口へ。便に乗る前に残っていたソーレスをドルに換える。
リマからサンティアゴ行の便に乗り込む。あと3時間ほどでチリの戻れると思うとほっとする。              
今回の私の旅は厳しかったと書いた。夜行バスに往復乗って、しかもチャチャポヤスでトレッキングのようなツァーを2回したのだから。しかし中高年にはきついだろうが30代のバックパッカーならだれでもできるのは自明だ。厳しい旅と大げさに言うほどのことはない。幸いなことに飛行機の中で私はそれほど疲労感がなかった。
夕方、サンティアゴに着いた。イミグレ・通関を終え外に出る。ガイドの仕事で日本人グループを待っているときと逆の動きだが、だれも私を待っているわけはないからバス・地下鉄で家に戻った。

チャチャポヤス王国はインカの500年も前に始まっているが、ちゃんと良い暮らしをしていたのは明らかだと言うことだった。(今より良かったの?) 
チャチャポヤスの町は素晴らしかった。たった二日では物足りなかった。いや二日で素晴らしさがしっかり分かった。クスコには2年住んだから、その近郊も含めてほとんど知っているが、人口3万人のチャチャポヤスでもしばらく住めばその素晴らしさをさらに奥深く実感できるだろう。友だちからそんなことを言うと奥さんに嫌われますよと言われた。                   
クスコ・マチュピチュは日本人ならだれでも知っているが、チャチャポヤス・クエラップは誰も知らない。じゃ、何とかその素晴らしさを知らせ一人でも多くの人にここに来てもらいたい…と言う考えが沸き上がった。それでこの旅の報告書を書き始めたわけだ。
チリでこの旅日記を書き、あちこちに送ると反応があった。チャチャポヤスって素敵なところですね。私も行って見たい気になりました。費用はどれくらいでしたか?その回答だが、ペルーにいた6日間で、滞在費(ホテル3泊、食事、交通費、ツァーそしておみやげ)は1101ソーレス(334ドル)だった
こうして私はチャチャポヤス応援グループになり、その宣伝をし始めたわけだ。リマからチクラヨまたはカハマルカまで飛びその後バスでチャチャポヤスに行くと10時間かかる。それは一般の観光客には無駄な時間になる。ハエンまで行ってバスにするとそれが半分以下の4時間になるがそれでも時間の無駄。となると以前のようにリマ・チャチャポヤス間の直行便を飛ばすのがベストになる。雨季で視界が悪くなる時期の3か月は運航中止にしてもそれ以外の時に直行便が飛ぶようになれば観光客は2,3倍でなく100倍にも増えるだろう、もちろん適切な宣伝をすればと言う条件が付くが。例えば、現在、日本からチャチャポヤスへの団体客が年100名とするとそれが1万人になるかも。チャチャポヤスはそれほど魅力のあるところだ。クスコ・マチュピチュと同じレベルの素晴らしい観光地と言うのが私の結論だ。私の情熱がこのレポートを読まれた皆さんに伝わるかな?