チャチャポヤスの旅 その2

さて翌日、水曜日。ホテルの食堂で朝食をとる。果物がおいしかった、ここは亜熱帯地区だから種類も豊富。
最も高度があるので暑い感じはない。窓から外を見るといかにも雨が降り出しそうな気配。やばい。
昨日の疲れはそれほどでもなかった。全部のコースを歩かないで馬に乗ったのが正解だったのだろう。つまり今日も一日、ツァーで歩けるという気になった。それでホテルにクエラップ・ツァーに参加したいと申し込む。
様子を見るためホテルの外に出ると雨だった。今日は雨の中を歩くのか。もちろん合羽と傘を用意する。
クエラップは北のマチュピチュと言われるが、実際はどうだろう。行く前からワクワクしてくる。
私はマチュピチュはもう80回も訪れているから(大半はガイドとして)両者の比較をするのは難しいことではない。

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クエラップ。小さくロープウェイが見えます
その日も10数名が小型バスに乗って遺跡に出発。町を出てしばらくは昨日のルートと同じだが、途中から方向が逆になった。バスの中から外を見ると所々に住居が見えるが、誰も住んでいない地区がほとんどだ。チャチャポヤスの時代はどうだったのだろう。雨はやんでいた。距離が遠いので昨日より時間がかかったが、近くの町ヌエボ・ディンゴにつき、そこから上に登り始める。立派な建物が見えたが、そこが遺跡の入り口だった。
遺跡側が準備した小さなバスに乗り換えてロープウェイの乗り場に向かう。霧か雲が周りを囲み空が暗くなってきた。
ロープウェイは2017年に完成しているから、まだ出来立てと言っても間違いはない。
こんな辺鄙なところにと言えるようなクエラップに世界最高級のロープウェイがあるのは驚かされる。8人が乗りこむと出発。眼下に断崖絶壁の素晴らしい景観が続く。近くの丘・山に人が歩く道が見える。誰がそこを歩いているのだろう。
真っすぐではなく登りや下りがあるが、ロープウェイはグングン進む。このシステムを作り上げるのに何年かかったか知らないが、大変な作業だったことは間違いない。もちろんペルー政府はそれだけの価値があることを確信していたのだろう。
それ以前は遺跡入り口から遺跡までバスで谷を渡って1時間半ほどかかったようだが、今は20分で遺跡側の駅に着く。 

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クエラップ遺跡の入り口
ガイドがグループの仲間に、「私の後をついてきてください。もし道に迷ったら第3出口に行ってください」と言って歩き始めた。
チャチャポヤスは海抜2300メートルだが、この遺跡はバレタ山3000メートルの上に建設され一番高いところは3200メートルだ。歩き始めると私は調子が悪くなったのでペースをゆっくりにした。ガイドが近寄ってきて様子を聞くのでそれを言うと、この植物の葉を嗅ぐと治るよと言ってくれる。なんとそれが当たって軽い高山病が治り通常ペースに戻った。葉っぱの名前を聞くと「死者を甦させる」とか。大げさな。
いよいよ城壁が見え始めた。クエラップ遺跡だ。20メートルほどの高さの城壁が延々と続く。
各所で修復工事が行われている。それは大事なことだ。
その第3入り口に着いた。
ガイドはスペイン語と英語で説明する。観光客の多くはスペイン語より英語の方が理解できる。
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クエラップ石のデザイン
私の興味の中心は石組みだ。インカ(プレインカ)の石組みに魅せられている私はここの石組みがどんなものか楽しみだった。
この遺跡は一方通行で指示された通り歩いて遺跡を一周する。道は木材で作られた階段で覆われ、その上を観光客は歩く。全周、その遊歩道は完成していた。
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クエラップ遺跡内通路
マチュピチュのような混雑はないが、観光客が多く歩いているのは確かだ。私がクスコにいた40年前には、マチュピチュには少しの観光客しかいなかったから、ここもあと10年もすると観光客が列を作って歩くことになるかもしれない。
さてここは城と言われる、難攻不落の城と。3つの入り口は細く、人ひとりしか歩けないから外敵が来れば上から石を投げて攻撃すれば必ず勝てると言うわけだ。
しかし私はそうは思わない。
ここには水と食料がない。つまり水と食料は下の町から運ばれてきていたわけだ。ということは敵の軍隊がこの城を取り囲めば、水も食料も入らず、ほんの少しの日数で白旗を上げることになるだろう。その点、マチュピチュは石組みを使って水路を作り、水が流れるようになっていた。実際に水が流れていたのを見たことがある。また段々畑を作って,農産物を自作していたのは明白。そこは二つの遺跡の間に大きな違いがある。
ここには約600個の家があり、1軒に8人住んだとされるから、街全体では約5千人だろう。それはマチュピチュよりずっと多い数だ。その5千人は生産にはかかわらず、宗教・政治の分野で仕事をしていたはずだ。
それだけの人を養う仕事は容易なものではないだろう。チャチャポヤス国にそれができる余裕があったことははっきりする。
つまりここは城ではなく宗教上の聖地と政治の中心として使用されたのだろう。
インカに攻め込まれた時、インカ側の言い伝えでは、チャチャポヤス国は堅固の守りを見せたとされているが、このクエラップが戦場になったとは言われていない。
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クエラップ北の塔
第3入り口から中に入ると、まず北部地区になり、北の塔と呼ばれる建物がある。遠くから見るだけで建物の近くには近づけない。多分、以前は観光客がそばまで行けたのだろうが、何か問題があって、今は遠くからしか見られない。多分、その中に誰かが入ろうとしたのだろう。そして中央部に歩き、さらに続けて南部地区に入る。住居跡と神殿跡が目に入る。ここでも神殿と言われる建物の中で人骨が多く発見されているが、生贄、人身御供が頻繁に行われていたことを証明する。多くは子供だったようだが、神様にその子供の命を奉げるということになる。理屈はわかってもその考え方が納得できない。
歩いていると小雨が降りだした。合羽を出して羽織る。帽子の下にもビニールのカバーを入れて濡れないようにした。

そして壁の一部に飾りがついているのを見る。例えばひし形のマークが壁に刻まれている。インカは石を加工する素晴らしい力を持っていたが、こうしたひし形やそのほかの飾りを石の表面に入れることはなかった。で、その飾りを見たとき、私は喜んでしまった。素晴らしいと。これを見るためにここに来たのだ。(ちょっと大げさかな)
インカはそういった飾りを嫌ったわけで、チャチャポヤスを征服した後、必要ならその飾りをクスコに持ち帰ることができたはず。しかしそんなアイデアを持ち帰ることはなかった。
インカの石組みは初期・中期・後期と別れるが、ここにも同じく3期にわかれることが分かった。ここの石組みも、初期の基礎石組みから進歩し、徐々にレベルが上がっていることを確認したが、インカの後期のような上下左右が面接合でピッタリ引っ付いているまではいかなかった。ということは15世紀でもインカとチャチャポヤスの間に交流はなかったということになるだろう。
遺跡の周りの壁は高さ約20メートルの立派なものだが、入り口の近くにそれが崩れている場所がある。そこを見るとベースになっている石組みは初期のもので外側の石組みは後期のものと分かる。つまりこの遺跡を作り始めたころは、その初期の石組みが最高のもので、それが何百年かして新技術ができたので外装としてそれを覆い隠す石組みが作られたということだろう。(写真を見ればすぐわかる)こんな説明は地元のガイドはしない。
その後、チャチャポヤスがインカに征服され、インカの影響力がここに入ってきた。それまでクエラップの中では、彼らの好みの円形の建物が建てられていたのが、インカ式の長方形の家屋が作られているのはその証拠の一つ。しかしインカ式の後期の石組みの建物がないのは、それを使う重要建設物を立てる時間がなかったのか、それほどここを高く評価していなかったかのどちらかだろう。それからマチュピチュにあるように東西南北を示す石の方向指示岩がここでも設置されている。インカの仕事だろう。
インカが征服した国をどのように支配下に入れていったかは、以前に学んだが、その一つは使用する言語をケチュア語にすること、王子をクスコに住ませインカ式教育を施し、インカ人になった段階で元の国に戻し王様にする、こうすればインカの傘下に問題なく入れるなどをこのチャチャポヤスでどのように実行したか知りたいものだ。わかっているのは一部のチャチャポヤスの人間をほかのインカの領土、例えばクスコやキトーに移動させている。強制移民ということになる。

ペルーには大きく分けて二つの文化圏がある。海岸地区と山岳の高地文化だ。漁業を中心とした生活と農業中心の生活と考えることができる。一番古いと言われるチャビン文明はチャビン・デ・ワンタルと言われる地区にある。昔、そこを訪ねたことがあるが、小さな盆地にその遺跡はあった。ここでは多くの人は生活できないと考えたが、そこは聖地になり、多くの巡礼が遠くからも訪問したとかで繁栄したことが記録されている。チャビンはこのチャチャポヤスと同じくらいの高地にあるところだった。ただアマゾン流域ではこのチャチャポヤス国が最初ではないかと言われる。
マラニョン川とワヤガ川の間のチャチャポヤス王国は8世紀から16世紀ころまで750年ほど続いている。もっと古い6世紀にはじまったという説もある。それだけ長期間、国が存続したということは外敵に負けない軍を持っていたということに加え、政治組織が安定し、住民が安定した生活を楽しむことができたという証拠になるだろう。そして領土は拡張し最盛期には結構大きな領土を持っていたらしい。それだけでもチャチャポヤスは立派な国と言える。しかしここはインカやモチェと違って大王・皇帝と言った制度でなくもう少し柔らかい政治組織だったようだ。
いずれにしても日本ではこの国のことはほとんど知られていない。

さてクエラップはそのチャチャポヤス王国の首都と言われる。素人の私が言ってもあまり迫力はないが、チャチャポヤスと言うのはケチュア語で雲の上の人と言う意味だが、インカに征服されたのはスペイン人が来るほんの少し前だから、インカとは全く別の文化・生活をおこなっていたわけで、言語も独自のものを使っていたことになる。じゃ、なぜそのオリジナルの国名を使わないの?彼らもチャチャポヤスと言われると不愉快だろう。
オリジナルの言語でSOCHA (森) PHUYU(霧)から来ているという説があるが、それならソチャプユでチャチャポヤスではないだろう。 

クエラップの建設が始まったのは9世紀と言われるから、建国から間もなくのころだろう。この立派な都市を作る力が建国の勢いになったはずだ                
そしてインカのツパック・ユパンキにより1470年に滅ぼされた。
そのインカがスペイン人と争い始めたとき、チャチャポヤスはスペイン側についてインカと再度戦ったとか。もちろん、独立を目指したわけだがスペイン人はインカを滅ぼしたとき、チャチャポヤスとの合意は守らなかった。騙されたわけだ。
チャチャポヤスの近くのカハマルカでインカの皇帝がスペイン人の手に落ちたとき、スペイン人は200人もいなかったのだから、インカと戦かうと言う部族はスペインにとって全部が援軍になったのは確かだ。ただスペイン人は約束を守るつもりは全くなかったのだろう。

ここが発見されたのは1843年と言うから、マチュピチュより60年以上前のことだ。 つまりもっと以前に世界的に有名になっていても不思議はないのだが。
クエラップはいつか世界遺産になるだろうと言われる。近い将来に、間違いなく登録されるはずだ。その価値は十分ある。この遺跡の発展のための仕事にJICAが協力していると聞いたが、素晴らしいことだ。いままで書いてきたように、この遺跡は見所が十分ある。 
ただマチュピチュと比べると、絵になる場所が少ない。マチュピチュの写真はほとんどが見晴らし台から撮ったもので前にワイナピチュがそびえる。あの風景が世界に広がっているが、その素際立った美しさがここクエラップにはない。

クスコの近くにはマチュピチュ以外に,ピサックやオリャンタイタンボなどの遺跡があるが、チャチャポヤスでも、ここのほかにカラヒア(ペルーのモアイと言われる像が立っている)遺跡など見どころは多くある。つまり観光地には不自由しない。
前日、ゴクタの滝まで歩いたが、それより少し遠いところにユンビジャの滝がありその4段の滝は合計985メートルと世界トップクラスの高さと言われる。そしてラ・コルパ温泉は病気の治療にも役立つとされている。
 
3時間ほど歩いて遺跡を全部見終え、遺跡の入り口に戻る。そこには土産物屋、トイレなどがある。ここがマチュピチュみたいに有名になればロープウェイ乗り場の近くにホテルが作られるのでは。
全員そろってまたロープウェイに乗る。下に降りて近くの町のレストランで遅い昼食。出発前にオーダーを出しているのでレストランで各自が注文したものを、焼き肉とか魚料理とか言って持ってくる。食べ終わってバスに乗る。

昨日と同じようにチャチャポヤスの町に戻ってツァーは終わる。雨はやんでいた。
ホテルに戻り、遺跡歩きの時に少し濡れた服、靴を変える。雨に降られたが、大雨ではなく小雨だったので助かった。
明日も雨なのはわかっていたから、ここでもう一泊するのをやめて夜行バスでチクラヨに戻ることにした。
ホテルの外に出て、路上で売っていたお土産物を買う。その先住民の服を着た女性はもっともっとと言うので沢山買わされた。
夕食は近くの小さなレストランで。女性のオーナーと世間話をした。チリでもペルーでも、大都市でも田舎の村でも
もっと大げさに言えば、世界のどこでも人は自分の生活を続けるために働いているわけだが、有名人とか大金持ちとはともかく、大事なのはコツコツ生きることだ。ペルーの田舎のレストランの女性と楽しく話をしながら、それを考えた。

夜の8時半ころバスは出発、海岸の方に向かう。この町が気に入ったこと、滝と遺跡の旅を楽しんだことでバスの中で充実感を味わえた。
ペルー北東部アマソナス州の州都チャチャポヤスの旅はこうして終わった。チリの戻る前に海岸地方の文化遺跡を見に行こう。