チリにおける日本(日本人)観


日本の認知度が上がってきているのは世界中共通のことで、特に私の住む南米のチリだけではない。

しかし日本ではあまり知られていないこのチリで日本の知名度の実際はどうなのか、またそれがどうして上がってきたのか考察したい。

ラテンアメリカとか南米とかと一口に言われる事が多いが、それを構成する各国の国民性が違うのはあきらかだ。

チリは南米にありながらラテンののりが薄いといわれることが多い。やや地味な国民性で、他の国のようにカーニバルで騒ぐことも無い。大陸にありながら島国みたいといわれるのは東のアンデス山脈と北部の砂漠が近隣諸国との接触を妨げているからだ。西は太平洋、南にはもう大陸は無い。このチリ島国論でいけば,チリに同じ島国の日本式思考が受け入れられる余地があることになる。

例えば,チリは学歴社会だ。で、良い大学に入るため,高校生のときから予備校に通う。これは日本の学習塾にあたる。もっとも大学に進む若者の数は日本よりはるかに低く20%にしかならないが、これも将来日本のように上がっていくことは間違いない。日本と違う点は、勉強しない学生を許さないことで,卒業できる学生は入学生のわずか50%にしかならない。しかも通常のコースは日本と異なり5年制だから,ここの卒業生は社会で即戦力として期待される。

ところでチリの労働者の質はどうだろう。彼らはカイゼンのコンセプトを理解する。うまくリードすれば生産工程の改善案を提出することさえ出来る。日本と似ているのではないか。もっとも日本人の勤勉さがこの国民のすべてに当てはまるとまで言うと過大評価になるかもしれない。

それから就職にせよ、日常の商売にせよコネが多く使われるのもこの国の特徴だ。それでチリでは今月ちょっと成績が苦しいので助けてくださいと得意先に泣き付くこともあるが,近隣諸国ではその時,友情は友情,商売は商売と言われる。

このあたりも日本の人情と似ていると言えないだろうか。

そのほかにも風光明媚な自然を愛する心も両国共通と言うことができるだろう。

さてチリの日本の認識度に入ろう。チリでは南米の近隣諸国に比較し日系人社会の規模・歴史は低いレベルにとどまっている。つまり日本人(日系人)の活躍を通じてチリ社会に日本のイメージが浸透してきたのではない。

じゃ、有名な日本の工業力がその原因かと考えると、確かにそれは一部当たっているようだが、それだけではないかもしれない。と言うのはチリ人が知っている日本語は自動車や家電メーカーのブランド名だけではないからだ。

そうだとすれば、認識度の上昇はどこからきたのか、早速その検証を始めたい。しかしその前に日本の浸透度はチリで唐突に上昇したのではないと言うことを付け加えておきたい。

チリと日本の関係を見るのに私個人の経歴を通してみたい。私は1979年、世界一周の旅の途中、チリに入った。20数年前のことだ。軍事政権下で夜の戒厳令(外出禁止令)が敷かれていた時代だ。日本を出発してから3年経っていた。3日のつもりで入った首都サンティアゴにそのまま住みつくなんて誰が想像できよう。

そのころ、日本を知っているチリ人は少なかった。多分、現在のアジアでいえば、ベトナムカンボジアというところか。それは無理もない。距離が遠すぎて両国を結ぶラインがなかったからだ。ブラジルやペルーのように大量の移民が入った歴史が無い。その頃、ブラジルに100万人くらい,ペルーに約10万人、そしてアルゼンチンにも数万人の日系人が住んでいたのに比べ,チリ全国でわずか2千人くらいと言われた。チリの総人口1500万人の中で2千人では存在感は無い。

さらにチリの学校でおこなわれる地理や歴史の授業で学習されるのは欧州とアメリカが中心でアジアにはほとんど触れられない。またその遠距離から日本にバケーションで旅行するチリ人はいない。このため通常なら日本文化がチリの社会に侵入することは及びもつかないことだった。

それに日本からの工業用品がチリ市場に入るのも遅れていた。それは両国を隔てている距離だけではなく日本品をなんとか入れようとするほど魅力のある大きな市場ではなかったからだ。従って日本、日本人を知っているのはごく限られた層の人だけだった。

私はチリで仕事を見つけ働き始めた。それはこの国に住んでもいいと思い始めたからだ。それは日本製品を販売する仕事だった。80年の始め、まだ製品の品質は高いとはいえなかった。またスペックの問題などもあり、クレームがでると私の貧しい語学力ではその対応に苦慮した。そのころ、日本製品のレベルは残念ながらそれくらいだった。まだ他国のライバル会社の技術やデザインをコピーすることもあった時代だった。

最初の頃(1980年)に鮮烈に覚えていることがある。当時,新車はチリの庶民には高嶺の花だった。そこへ日本の軽自動車が低価格で登場した。始めて新車を手にする可能性が出たのだった。それが街にあふれた。

ところが、しばらくすると、状況は変わってきた。日本からの製品は競争力を持ち始めた。それまでの価格が安いというだけでなく、性能が格段とあがってきたのだ。そしてそれはかなりの間、継続するのだが、人件費の高騰と共に困難な時期を迎える。

チリにとって輸入されるものは、競争力さえあれば、アジアからの場合、日本である必要はなく韓国でも中国でもどこからでもよい。

それで、日本ブランドは競争力を維持するため、他のアジアの国(例えばマレーシア)やラテン諸国(ブラジルやメキシコ)に生産拠点を移し輸出を継続することになった。その継続性は日本もしく日本ブランドのイメージ定着に貢献した。

現在、確かに日本からチリへの輸入は最盛期と比べると低下している。かって、日本製品を買っていた層が韓国品や中国品に流れたからだ。彼らが「日本品の良いことは知っているが、自分の懐具合にはこっちの方があっているのでネ」と安い他の国のアジア製品を買っていくのは何度も目にしたものだ。しかしこれはとりもなおさず日本(もしくは日本の技術力)への高い評価となる。他の言葉に代えると日本(もしくは日本の製品)は信用できると考えられはじめたとなる。

さて日本製品がチリの市場に流れ込むようになったころ、チリは日本の市場を調べ始めた。軍事政権が終わり,民政が始まっていた。軍政が終わったのは1990年だ。軍政が終わったというだけで、国民の生活レベルが上がるわけではない。

チリの軍事政権はそれがイメージさせるほど特に閉鎖性を持っていたわけではなかったが,民政化と共に新しい経済活動が始まる。

しかし先ずチリ経済が国際競争力をつける必要があった。それまでの国の基本,つまり一次産品の銅の生産・輸出にたよる体質を何とか改善し、輸出量を増加させるため多業種の開発が目指された。これが失業率低下の切り札になった。

そしてその中で日本市場は、他の国とは大きな違いがあるが、その性格さえつかめれば、経済規模から言っても非常に魅力のある市場だということを認識した。こうしてワイン、サーモン、果物、肉類、もちろんチリからの最重要輸出品目は銅だが、などの輸出が始まった。チリのマーケティングが成功して、それらの品目で日本は最重要輸出先の一つになっていった。日本のスーパーマーケットでチリ産のサーモンとノルウェー産のそれが競っていることをご存知だろうか?このようにして両国間の貿易はチリの輸出超過となっていく。

そしてチリは南米の中でもっとも民主化が進み、経済的に成功している国になっていった。現在チリは約60の国と自由貿易協定を結び,世界でもっとも開かれた市場になっている。もちろん日本ともこの協定は合意されている。

こうした段階でチリにおける日本の認識が大きく変化していった。しかし単に産業関係だけではない、チリの国力アップに伴って、一部の有識者だけが持っていた知識が一般市民にも浸透していった。日本文化のチリ社会への浸透と言えるかもしれない。最近では小泉(前)首相の発言や、皇族関係の記事が一般新聞の記事になるようになっている。

それはチリの教育水準が上がって、外国を知ろうとする風潮が生まれたこと,またそれが容易になったこと(例えば,インタネットの普及)がある。

それから特筆されるべきは日本から取りよされた文化が、漫画を筆頭に、チリ人の心に触れたからだろう。

ここでその例としてチリ人が知っている日本の言葉を数えてみよう。

生活関連ではスシ、ゲイシャ、サムライ、カミカゼ,カイゼン,キョウト,ゼンなど、趣味関連ではカラオケ、マンガ(アニメ)、テレビゲーム関連の言葉、ボンサイ、囲碁、将棋など、またスポーツ関連では柔道、空手、合気道,相撲それにニンジャが含まれるだろう。その多彩なことは目を見張らせる。これらの言葉は一般のチリ人が知っているのだ。もちろん言葉が行き渡る過程でその概念,さらには文化にまで触れていくわけだ。これが日本の知名度アップに直接貢献しているのだが,それは日本の努力と,チリの努力(それを理解する力をつけたと言う意味で)によると言えるだろう。

これで日本の知名度アップは日本の工業力だけによるものではないと言う証明になるだろう。同じアジアでも韓国や中国語の言葉でこれほど浸透しているものは無い。

さてそれらの仕上げとして2002年に日本で開催されたサッカーのワールドカップがある。他の南米の国と同じくサッカー狂のチリでは,それらの試合がテレビで放映され,日本の素晴らしい印象が脳裏に刻み込まれた。

サッカーと直接関係の無い,東京や京都の街並み,新幹線などがチリのテレビで報道されたのは間違いなく日本の知名度アップに貢献した。

チリ人で日本語を知っている人間はいないだろうと思われるかもしれないが、そうでもない。私の娘が昨年AFSでアメリカの高校に留学したが、何と日本へも毎年複数(昨年は2名)の高校生が渡っているのだった。彼らは1年間で日本語のほかスポーツや趣味の世界を勉強してくるが、

チリの大学に将棋や囲碁のクラブがあると聞けば驚く日本人は多いはず。チリ将棋クラブはチリ大学の中に設置されている。囲碁のほうは、日本人,中国人,韓国人がチリ人と合同でチリ囲碁クラブを作っている。その他、JICAなどの政府援助で、日本で勉強したチリ人の医者、技術者も多い。彼らが帰国後グループを作って日本との交流を維持しようとしている。チリ日本人会の活動に彼らが積極的に参加しているのもその一つ表れだ。

チリではアジア人全般をチノ(スペイン語で中国人の意味)と呼ぶ。それが、最近日本人にハポネス(日本人の意味)と呼びかけるようになってきている。

私は最初、日系企業に勤務し、日本商品を取り扱っていた。しかし現在はチリの企業で働き、アメリカ・ブランド関連の仕事をしている。つまり日本から離れたところで生活しているわけだ。生産・営業あわせて35名もの部下を持っているが、彼らから「藤尾さんは得ですよ」と言われることが多い。それは日本人の私は普通のチリ人だと得られない特典があるというわけだ。相手企業のトップが時間が無いからと面会を断ってきたとき、私の名前を出すと、なんだか遠い国からわざわざ自分のところまで会いに来てくれたのかと誤解するという。私は相手先に誤解されて商売をしているわけではないと部下に言うが、彼らはにやにや笑って「日本人だから有利なのですよ」と私の実力と過去の実績を尊重しない。既に書いてきた日本への信用(もしく日本の製品への信用)が私にダイレクトに作用しているのだろうか?

ところで私は日常的に、「改善、コツコツ、信用第一」と部下を指導している。

結論になったようだが、こうした経緯を踏まえて、日本がチリでそこまで信用されるようになったことを報告したい。日本の知名度アップを素直に祝い、日本の皆さんにこれからも協力をよろしくとして締めくくりたい。