チリの風 マラソンその1

04年4月11日(日) サンティアゴ国際マラソン

いよいよ本番の日がきた。私のアパートに三人が集まることになっていた。

先週の練習で12Kを一緒にゴールしたリカルド、塚原と私の三人。リカルドが乗り付けてきたタクシーに待っていた私たち二人が乗り込んで出発。朝7時。気温は10度だったが、そう寒くは感じなかった。三人とも下はランニング・パンツだけでズボンははいていなかった。

ところで、この3人の中でゼッケンをつけているのは塚原さんだけだった。リカルドは65ドルの参加費は高すぎるといって、登録しようとはしなかった。私はそんなせこい考えは持たずちゃんと65ドル相当のペソを持って、このマラソンの企画をたてたオリンポ社にいったが、もう通常受付の締め切りはすぎています、インターネットで申し込んでくださいと冷たく断られる。じゃ参加費用の支払いは?と聞く私にクレヂットカードから引き落とさせてもらいますとの回答。しかし私のカードはドル建てではないから支払請求がくれば、どこかからドルを手にいれて銀行に持っていく必要がある。面倒。で、私も正規の参加をあきらめてリカルドと同じ不正参加になってしまった。私もせこいか。

タクシーの中で、私は5Kまでは3人いっしょに走ること、そのあと、私はリカルドと15Kまでいっしょに走って、最後の6Kは自由にしようと提案した。

塚原さんはそれに同意したが、リチカルドは納得せず、最後まで一緒に走る約束ではなかったのかと私を非難する口調で言う。冗談で文句を言っているのか本気なのか考えてしまう。

30分で会場のオヒギンス公園についた。塚原さんはゼッケンの登録を済ます。

ラソン出発まであと1時間。3人は高まってくる気持ちを抑えつつウオーミングアップに入る。

参加者が徐々に集まってくるが、この広い会場では群集というには程遠い。ざっと見て1000人超くらいの参加者だった。もちろん3種類の競技中で11Kの参加者が最も多く、それからハーフマラソン、一番少ないのがフルマラソンに挑戦する人間だ。

トイレにいく、私は緊張するとトイレに行きたくなる。レース中にトイレにいくのは最悪だ。いつのレースだったか、三井の人間と走ったとき、11Kを走ったチリ人だったが、彼はがまんできなくなってガソリンスタンドのトイレに入ったのを思い出す。

出発が近づいてきた。

サンティアゴ国際マラソンというのは、この大会が世界陸連に登録されているということを示している。今年の参加者の国数は26と発表されていた。その中には日本や韓国も入っていた。そんな遠いところからここまでマラソンを走るためにくるわけがないから、チリに住んでいる人間が走るのだろう。はっきり言ってこの大会のレベルはきわめて低い。

「塚原さんはスタート地点にいって、私とリカルドはこの辺で待つから」と自分の気持ちを二人に伝えた。ゼッケンを付けていないのに出発地点に並ぶのはやっぱり気が引けるから、出発して少ししたところから一緒に走り始めようということだ。

でも結局、「そんなこと気にすることないよ、私たち以外にももぐりはいるよ」となって、正式スタートラインに私たちは並んだ。これで私の正義感もいいかげんなものだと言うことがわかる。

スタートラインの前の狭い地域に千人以上のランナーが並ぶとさすがに密集している気がする。

横に並んだ女性が清涼飲料水のビンの蓋をあけてそれを道路に投げ捨てた。にらんだがビクともしなかった。憎たらしい女性ランナーだ。そんなふたで足を捻挫することだってあるのだから。蓋を道路の端に移す。

いよいよスタートが近づいた、時計を00分にあわせて、スタートを待つ。

号砲が鳴り渡り、いっせいにランナーが走り始めた。前のランナーに遅れないよう走り出すが、今日は抑えて行こうとレース前にした約束をかみ締める。

アホな私は、最初はゆっくりと言うルールを、すぐに忘れて突っ走る癖がある。

でも、今日は一人ではない。仲間が二人いる。目標は最初の5Kを30分で走るというものだ。さて守れるか?

公園を出ると、アラメダ大通りに向かう。会場から少し逆戻りをしてその通りに出る前にもう1Kは走っている。最初の団子状態から、だらだら続くグループ状に集団は変化している。

私たちの前を、でぶの女性が走っている。不細工なとは言っていない。顔なんて見えない、ただ肥満体質な女性といっているだけだ。彼女の後ろを走るのは、どうにも我慢ができないが(こんなランナーより自分は遅いのか)、彼女を抜いたとたん、その前に一人の老人が走っているのに決まっている。よれよれとは言っていない、ただ私よりかなりお年を召されたランナーといっている。

このように一人を追い抜くとすぐその前に違うランナーが待っているから、前のランナーを抜きにかかると言ういつもの性癖を止め、ここは自重して、5K30分のペースを守ろう。

1K6分(つまり5K30分)の速さってどんなのか分かるのですかと聞かれそうだが、私のようなベテランになると、1K6分でも1K5分でもちゃんと走り分けることができる。じゃもっと速く走れるの?と聞かれそうだが、1K4分はさすがに苦しい。(5年前、10Kの公式大会で39分02秒で走った記録が残っているが・・・)

サンティアゴのもっとも大きな通り、アラメダをランナーは走っている。もちろん私たちは後ろのほうを楽しく走っているが、会話をしながら走るのも悪くは無い。これが1K6分で走る余裕だ。これより早くなると会話をしながら走るのは困難。

まだ序盤戦だから、ランナーのパワーは十分で、それをどのように使うか十分に認識していない馬鹿なランナーは闇雲に速度をあげて、私たちを抜いていく。そういうランナーに限って、このあと2・3K先で歩き出すのだ。

私たち三人のピッチはぴったりあって、特に苦しそうな表情の人間はいない。まだまだ大丈夫だ。心配された塚原さんも、まったく遜色ない走りを見せている。最後の練習で3人そろってゴールした効果がこの自信になって表れているのだろう。道端にでて私たちランナーを見ている人が多くなった。繁華街が近い。もっとも車に乗っているドライバーは、いつまで交通遮断をするのだ、早く行かせろと文句を言っている。

大統領官邸を左にしながら走る。昔、私はこのあたりを毎日歩いていたのだが、それは三井チリがその事務所をこの官邸の向こう側に構えていたからだった。

最初の目標の5Kが近づいてきた。

ゼッケンのない私たちには水の配給はしてくれないかもしれないと心配したが、杞憂だった。(そのときは塚原さんが三人分、もらってくれることになっていたのだが)リカルドはそれを心配して、ミネラル水の小瓶を手にしていた。

給水所につく。少しだけでも水を飲むことにする。記録は29分25秒だった。すごい、30分の目標にぴったりだ。さて水を三人が取ったところでこの先は二組に分かれてレースに挑むことにする。計画どおりだ。塚原さんはこの先無理をせず自分のペースで2時間半を目標にゴールを狙い、私とリカルドはピッチを上げて1時間50分台の記録を狙う。

アラメダからプロビデンシア通りに名前が変わる。まだ自分たちのペースをつかんでいないが速度の上がっていることは、感じられる。前を行くランナーと同じくらいの速さになったので、もう以前のように抜かれることは無くなった。

アフリカ系黒人が前を走っていた。外観はまるでNBAのスター選手かと思わせるほどの立派な身体つきだった。さぞかし早いのだろうと思わせるが、私たちと変わりない速度で、前になったり後ろになったり。

そういうランナーが何人も周りにいて、グループを形成している。

川を渡った。マポチョ川の向こう側は、日曜のせいもあって交通量も少なく気持ちよく走れる。すでにこのコースの下見を済ませているから自信を持って走った。ここまで走ってくると少し身体が熱くなってきた。袖なしのランニングシャツを上に、半そでのシャツを下に着ていたが、下の半そでを脱ぎ、袖なしのシャツだけにする。半そでは左手にもって、ハンカチ代わりに汗拭きに使う。

私が少しペースを落として着替えをしている間、リカルドもペースを下げて待っていてくれた。

「ちゃんと君のくるのを待ったからね」とリカルド。さっきの私の発言を警戒しているのだろう、釘をさしてきた。

ここで私が持ってきていた、バナナを食べる。2本持っていたので、リカルドに1本渡す。バナナはランナーの味

方だ。これをもって走ると、当然、邪魔になるが、1本食べると確かに元気が出るのを感じることができる。長い距離を走るときは練習のときでも、私はバナナを手にもって走る。ごみ箱にバナナの皮を入れる。

以前はシェラトン・ホテル前の坂はきつくて前半の山場だったが、今回はそこが道路工事中で、その坂を登らず、緩やかな登りの道になっていた。そこを過ぎると少し下りが入る。多分、ここだけだ、このコースの中でこんなにはっきり下りになるのは。とにかく今走っているサンティアゴ国際マラソンのコースは単純で、最初の15Kはとにかく上りばっかり。いくら急な上りがないとはいえ、そんなに上りが続くと疲労は激しい。高低差は100M以上。

右手に近代的なビル群が見えてくる。現在の三井チリの入っているビルもそのひとつだ。私はその場所でも数年働いていた。サンティアゴのもっとも進化した事務所街だ。

10Kの給水所が見えた。ここまでの5Kは27分34秒。最初より2分ほど上がっている。予定では25分だったから、それよりは2分以上遅い。さぁどうしょうかと考えた。このままのペースで様子を見るか、ギアチェンジをしてさらに速度を上げるか。

そこからすぐ目の前に11Kレースのゴールが迫った。もうゴールをして楽しそうに話しているランナーや、自分よりゆっくり走っている知り合いを捜しに逆送しているランナーもいる。ゴールしたあとのランナーの幸せそうな顔はいつ見ても楽しそうですばらしい。自分たちもあと10Kであんな顔になるのだろうか。

そこを過ぎるとランナーの集団はなくなり、1列になって走っている。普通は単独だが、ときどき私たちのように二人組みを見ることができる。前にそんな二人組みのカップルがいた。女性のほうはすんなりとした身体つきで、いかにも鍛えているという風情だった。で、いつもの癖がでて、じゃ抜いてみようとする。

リカルドは、道端に美人の女性を見ると私に、ぼくのガールフレンドが応援してくれているというのだが、それが不細工な女性だと、あっピーターのガールフレンドが見ているよという悪い癖がある。

で、私が抜きにかかったような女性ランナーは、彼の女友だちになるのだろう。もっとも彼女の横には男性ランナーが付いているが。

速度を上げて追い抜く。そのまま置き去りかと思ったが、二人も粘って、私たちとの差が広がらず、4人組のようになった。

右手にマポチョ川の河原が広がり、遠くにアンデス山脈が見えていた。薄日の差すこの日の首都の朝は爽快だった。

私たちの速度はとくに上がっている気はしなかったが、前を走るランナーを次々に捕捉しはじめた。多分、他のランナーの速度が落ちたからだろう。

快調だ。飛ぶようにとはいかないが、グングン前に出る。自転車にのった応援をつけたランナーを抜いた。リカルドが、わざわざ私のために自転車で伴走してくれてありがとうと冗談を言った。まだ彼も余裕がある。

どこまで行けるのか、今ひとつ自信がなかったので、私は速度を上げるのをためらっていた。でもどこかで上げるつもりだった。一度、速度を変えようとしたとき、即時にリカルドが、私の名前をよんで警告した。ゆっくりって。

道はほとんどまっすぐ東に向かって進んでいる。この5Kでもう何人抜いただろう。20人くらいのはずだ。

15Kの給水所が見えてきた。私は時計を見て、時間を確かめる。28分07秒だった。悪くはないが良くもない。25分には程遠い。さぁこれで最後の5Kになった。もうこれ以上怖がることはないから、思い切って勝負に出るべきではないか。

速度を上げる。リカルドはぴったり私の横についている。速度を上げると、話をする余裕がなくなる。で、黙々と走る。コースの横で応援してくれる市民の数は以前のレースより少なく感じた。バナナを皿に乗せてランナーの提供してくれる人もいなかったし。

川を渡って、またサンティアゴ旧市街の方へ出た。ランナーの塊はもうなくなったが、それでも何人かが並んで走っている。それを片っ端から抜き始めた。気持ちのよいほどの速さで彼らを置き去りにする。このあたりを走っているのは全員同じくらいの力量だから、誰かが無理をして抜きにかかれば、簡単に抜ける。他のランナーがそれをしないのは、まだゴールが近いと感じられないからだろう。

クリニカ・アレマナの病院前を通過。次の目標はケネディ通りの高架だ。交通量の多いケネディ通りの下に入る。この下りを利用してさらに速度をあげることにした。このとき、リカルドが二度目の警告を出した。私にゆっくりって。

前に20Kの給水所が見えてきた。

覚えている、以前ここでレース中に写真をとってもらったことを。応援にはここは分かりやすい良い場所だ。ショッピング・センターのそばで、おまけに日本人が多くすんでいる地域に近い。

20Kまでの5Kは26分22秒。今までのベストだった。一番最後の5Kが一番早いというのも面白い。

アプマンケ・ショッピングセンターの前を飛ばす。もうあと1Kでゴールだ。私も飛ばすが、リカルドも飛ばしている。まったく互角の勝負だ。ところがこの最後の1Kは厳しかった。今までより速く走ったのと疲労が重なったことによるのだろうが、ずいぶん長く感じた。向こうにゴールが見えてきた。もう走らなくても良いのか。

私はゴールの30M前のところで、走るのを止めた。ゼッケンのないランナーが係員が待ち受けているゴールに入れるわけがない。しかしリカルドはなんのためらいもなくゴールに向かった。彼のゴールの記録は1時間56分14秒だった。最後の1Kは4分46秒だった。正確には1.1Kだから、最後の1Kが一番速く走った区間となった。

ゴールにリカルドと私の家族が待っていてくれた。リカルドは私に近づき並んでゴールしたことを祝福した(実際にゴールの地点に到着したのは彼だけだったが)

ランナーが続々到着してくる。私たちがちょっと前に抜き去ったランナーたちだ。マイクが、ゼッケン638番、ハイメさんのゴールですと叫ぶ。拍手が起きる。私もゴールのそばで目の前を通り過ぎるランナーに拍手を送っていた。

ゴールした一人が芝生に倒れこむ。家族が心配そうに付き添っている。

続々とハーフマラソンのレースを終えたランナーが到着する。マイクが忙しく選手の名前を紹介する。

そのころあの黒人選手が通過した。そうか、彼はフルのマラソンだったので、私たちと勝負せず、抜かれても余裕でゆっくり走っていたのか。私たちと同じくらいの速さで5Kから10Kまで走ったランナーがゴールした。私を見つけて近づいてきた。君たち早かったね。自分も君たちに付いて行こうとしたんだが、10K過ぎたら疲れちゃって。こういう会話は実に気持ちの良いものだ。

ところで塚原さんが戻ってこない。彼の目標は2時間半。最初の5Kの走りを考えれば、もしかするとその目標を破って20分台で戻ってくるかもしれない。

さっき芝生に倒れこんだ中年ランナーは一向に良くならず、付き添いの奥さんはとうとう救急車を呼ぶことにしたらしい。そのほかにも一人、担架に乗せられていった気の毒さんも見た。

マイクの叫ぶ頻度が落ちてきた。もう大半のランナーがゴールしたのだろう。塚原さん、遅いね。リカルドはそういってから自分は家族も待っているからとと消えていった。

私は彼のゴールを待つことにする。

ゴールしたときは暖かかった身体が、少しずつ冷えてきたので、レースの最初に脱いだ半そでシャツをもう一度着なおす。最初の汗でぬれていたが、弱い日差しでも少しは乾いただろう。こんなものでもないより増し。

2時間半がすぎると私も心配し始めた。もしかして彼はレースを棄権したのではというわけだ。でもそのときもここまで来るに違いない。

もうランナーとその家族は大半が帰ってしまい、レース関係者が、所在無く立っていた。

まだ彼は見えなかった。もうフルマラソンのランナーでも21K地点を通過してしまっていた。ここを3時間なら、どうがんばっても42kのゴールに6時間の足切り以前に到着できることはない。

向こうに3人のランナーが見えた。2時間40分を過ぎていた。きっと彼らのうちの一人だろうと思った。3人が近づいてきた。塚原さんはいなかった。

今度こそ最後のランナーだろう、誰か走ってくるのが見えた。塚原さんだった。

よれよれになってのゴール。しかし最後に意地を見せ、速度をあげてゴールイン。マイクがツカハラ・ニッポンとコールした。

おめでとう、よくやった。彼は泣きはしなかったが、興奮していた。苦痛に顔を歪めていたが、苦しいレースのあとに目標だった完走を成し遂げたのだから、それは当然のことだ。

彼は私に最後の5Kでへたばってしまいとコメントした。最初は順当だったのですがとも。そうか彼にとって私たちと一緒に走った5Kが命取りになったのか。彼にとってはやや早すぎたにしても、三人にとってはあれがこのレースの戦略の中心だったのだから、しようがないだろう。彼はこれを教訓にしてランナーとして新しい一歩を踏みだすだろう。この初めてのレースは厳しいが、得ることの大きいレースになったはずだ。もちろん、リカルドや私にとっても。

彼の後ろにまだ一人、二人ランナーがいた。彼らの後ろをパトカーが走っていたから、間違いない。最後尾のランナーだ。

タクシーをつかまえて全員が乗り込む。レースの終わりだった。

レースが終わってから、私はとくに疲労感がなかった。その日の午後も、夜も翌日も寝込んでしまうことがなかった。今までフルを走ったときは翌日までその影響が残ったのとは大きな違いだった。やっぱりそれがフルとハーフの違いかと考えた。しかし息子の武蔵はストレートに一言、私にコメントした。おとうさん、本気に走らなかったんじゃない?

最終ラップタイム (5Kごとの計時)

  5K  29分25秒

 10K  27分34秒

 15K  28分07秒

 20K  26分22秒

 21K   4分46秒

 合計1時間56分14秒

後日この日の記録を見ると、ハーフマラソンは330人の参加があって、その内で260人が完走している。私の年齢のクラスではトップは61歳のアメリカ人で、彼はハーフを1時間31分で走っている。そして私の記録は5位に相当することになっていた。もちろん正式参加でない私の名前は掲載されていないが。

このレースのあと、私は3ヶ月間マラソン練習を休むことにしていた。登山など他のスポーツに力を入れようということだ。

ところが、相棒のリカルドはレースの翌日もう練習を開始したらしい。同じ職場だから、何かといっては私の事務所に入ってきて、早く一緒に走ろうとうるさい。走りたくないのだったら、そう言えばと娘のさやかは冷たいが、そうはいかない。で、私もマラソン練習を開始し、なんとこのレースから2週間後の10Kに出ることになってしまった。

(そしてその10Kを46分で走りきり、ゴールしてから両足痙攣で道端に倒れてしまった・・・・アホだ)

そのあとも、毎月レースが続くが、来年の4月はちゃんと登録して、42Kを走ろうと迫られている。ちゃんと断れるかな?

ちなみにこの大会で優勝したのは、招待選手ではなく一般参加の人間でなんと2時間20分台。まるで世界レベルの女子の記録だった。やっぱり、賞金が低いと世界的な選手が来るわけがない。



 短い距離のレースは練習しなくてもいつでも走れると言うメリットがある。もちろん、これは単に走りきれると言うだけで、良い記録が出るということを言っているのではない。しかしこれがフルマラソンなら、そうとう前から走りこんで、なおかつ当日気合が入っていなければ、とても走りきれるものではない。えらそうに言ったが、私はフルマラソンに何回も出ているのに一度も満足なレースが出来たことはない。 さて今回はどうなるかと言うわけだが、その練習過程からレポートしていきたい。

 はっきり言って、私のレベルはマラソンレポートを書いて他の人に見てもらえるものではない。とにかくフルで4時間の壁を切ったことがないから(近くまでは到達したが)。 つまりたんなる物好きが走っているにすぎない。それでも、中年の会社員が、仕事の後、こつこつ走っているのを記録するのは、健康のためには何かスポーツが必要という観点からなら、みなさんに訴えるものがあるかもしれない。

前哨戦その1  7Kレース

 子供の誕生日が近づいてきた。何か記念にと、三人でこのレースに出てみることにした。長男武蔵の誕生日が10月26日、長女さやかが11月12日生まれた。

二人の子供にとってはこれがはじめての公式レース。大学3年生の武蔵はサッカーをやっているので走るのは全く苦にしていないが、さやかは走りきれるか心配していた。「大丈夫だよ。ゴールまで、三人で一緒に走ればよいのだから。」と説得。

さてレースの日、03年10月26日、武蔵が21歳の誕生日。さやかはもうすぐ15歳と言うわけだ。タクシーに乗ってレース会場に向かう。

マポチョ川を渡ってメルクリオ新聞社の前が会場だった。登録をすませ、ゼッケンをもらい準備は完了。

レースが始まった。最後のほうから出発した私たちだが、それでもまだ私たちより少し後ろにいた連中にどんどん追い抜かれる。別に気にしない。今日は三人で完走するのが目標だから。三人の息は穏やかで、はぁはぁ、ぜいぜい苦しそうではない。まわりの選手に惑わされず、自分たちのペースで走って行く。

ところが中盤から様子が変わってきた。さやかが粘ったのだ。中盤からも速度が衰えず、逆に少し速くなったほど。

最初は1K7分くらいの速度だったのが、6分くらいにアップ。

で、そこまで無理をして私たちの前を走ってきたランナーを捕らえ始めたのだ。もちろんしかめ面をして歯を食いしばって走るのでは面白くないから、一人、二人、私たちは前を行くランナーを抜き返すごとにその数を数えはじめた。10、15、20・・・。するとさやかの速度がもっとあがってくる。

4kくらいのところでさやかが苦しそうな表情をしたのを見たので、少し速度を落とそうかと聞いても、いや大丈夫と返事が返ってきている。道端に人が出て応援してくれている。家族の応援を受けるランナーも多い。

目的地が近いねとさやかを励ます。一方、武蔵の方はまだまだ余裕がありそう。

そして目的地、7Kのゴールが近づいてきた。気持ちの良い道を三人は速度を落とさず走っている。

橋をわたって、最後の1Kになった。さやかは果敢にも速度をあげゴールを狙う。結局最後までに35人抜きさる。そして三人そろってゴール。目的達成。記録はなんと予想よりずっと早い41分08秒だった。42分が当初の目標だったから、それも破ったことになる。

おおげさな準備もせず、最初から自信のなかった彼女が、1k6分の壁を破ってゴールできるなんて不思議な気がするほど立派なものだった。

前哨戦 その2 10Kレース

いつものようにサッカー教室をするために土曜日に日本人学校に行ったが、ちょっと早く着いてしまったので、掘り出し物でもないかと近くのリーボック運動洋品店をのぞいた。そこで2週間あとの10Kレースの案内があった。じゃこれも走ろうかと軽い気持ちで登録を済ませる

11月16日(日)

今日はどれくらいのランナーが集まるのかと期待していたら、前回の7Kよりも少ない数だったのにがっかりした。数が多いと走りにくいのだが、それはそれ、やっぱりランナーが多いと盛り上がりを感じるものだ。

このレースはコースがほとんど下り坂と言う楽しいもの。サンティアゴラソンとはまったく逆だ。じゃ、さぞかし良い記録がでるはずだ。

ショッピングセンターの周りなどをゆっくり走りウォーミングアップをちゃんと30分して身体が温まってくるのを待つ。

突然、ピーテルかい?と呼ばれてびっくりした。以前サンティアゴ地下鉄に働いていた人間が、私を思い出して声をかけてきたものだった。地下鉄タイヤの売込みには本当に苦労した。認証試験に合格するだけでも2年もかかったのだから。それでも最後は70%シェア―まで勝ち取って競争相手のフランス人を悔しがらせたものだった。それも昔のことになってしかったが。

まんなか位の所から出発した私は、他の選手に遅れないようついていく。最初から飛ばしすぎると最後になってへたばってしまうのは当然のこと。それでも距離が短いことと、下り坂だけの安心感から、他の選手のペースに合わせてしまう。

日本人学校の前をすぎてラス・コンデス通りに出る頃には、もうランナーの塊はなく、ほとんど1列になって走っていた。昔のフル・マラソンで30Kだった地点を過ぎる。そうかそのときはここら辺りでへたばってレースを棄権したのかと考えながら、下り坂なので速度を落とさず走りつづける。

このように途中までは気持ちよく飛ばしたが、ゴール間近でさすがに苦しくなってきた。何とか粘れないものだろうか?ゴールが近づく。パルケ・アラウコの広場にたくさんの人が集まっている。もちろん私は最後は全力疾走だ。前のランナーをごぼう抜き。私と同じ考えのランナーが前にもう一人いて、他のランナーをごぼう抜きをしていたが、そいつに激しく迫り、ゴール寸前で何とか抜き去る。ゴール!!!!

時計を見て驚いた。39分28秒。悪くない。何年か前、交通事故に遭うまでに出したベスト39分02秒には届かないが、近年の最高記録だ。飛び上がって喜びを表す。それを見ていた係員が、気の毒に思ったのか、私に教えてくれた。

実は10Kと言っていますが、実際は10Kないんですよ。ナンだって?

そうか今の私の実力で、1K4分を切って走れるわけがない、しかしひどいじゃないか、10Kレースと言って、10Kないなんて。とぼとぼ家に帰る。

前哨戦 その3

日本人学校の陸上記録会

私は過去6回、この記録会に参加させてもらっている。今年は第7回目だ。

金曜日の午前中なので、もちろん会社で働いている時間だ。しようがない、会社にはちょっと個人的な用事があって遅れますと報告を出し、ラス・コンデス陸上競技場に。

今まで生徒、先生、父兄を相手にして1500Mを走って負けたことはない。

今年はなんと私のほか生徒三名だけの寂しいレースとなった。

出発する。えっ、私の前を一人の生徒が。つまり二番目のスタートになった。一周目の所で、彼の速度が落ちた。後ろを走る私ともう接触するくらい。カーブのところだったので、慌てることはない直線に入ってから抜くことにして、そのまま後ろを走る。

ところがどうしたことだ、直線に入っても私の速度が一向に上がらない。それで、前を行く生徒を追い抜くどころか、後ろの生徒に迫られる。こんなはずでは、そう思うのだが、一向に調子は出ず、2周目、3周目とずるずる後退して4位に。最後のダッシュでせめて、2位にと試みたが、わずか届かず、なんと最下位でゴール。記録もかってなかった5分50秒。信じられない数字だ。こんな短い距離なのにいつも走っている16Kの時より遅い速さだなんて。

いつもの5分20秒くらいなら、今回もトップだったのだが。ある先生に「子供に勝ちを譲ってくださって申し訳ありません」と言われたとき、泣いてしまった。その週、出張があって体調が悪かったことが敗因だろう。

早く服を着替えて出社しよう。

前哨戦 その4

突然、チリ物産の塚原さんから電話で、来年とうとう30歳台になってしまうが、その記念にマラソンを走ってみようと思う。藤尾さんと一緒に走れないか?と言う相談。もちろんOKする。そのあと、私一人ではなく友達の三菱の渡辺君も一緒でよいかとの追加相談。もちろん異存ない。

で、11月22日(土)三人でまず12Kの練習コースを走ってみることにした。

当日、渡辺さんが、日本人運動会の幹事になってこれないとのことなので、塚原さんと二人の練習になった。このコースは私にとっては、もう何十回ではなく、百回単位で走っているところ。

彼に走る2時間前に食事をすることと最初のアドバイス

さて8時半過ぎ、彼は車で私のアパートに着いた。身体をゆっくり暖めるのが完走するための秘訣として、二人で公園のまわりとゆっくりと走り始める。

そう言えば、数年前、同じように三井の若手の二人と一緒に練習したのを思い出す。彼らには練習では勝ったのに、一番大事な本番では負けてしまった。これは忘れてしまいたいが、事実だ。

12kのコースは、私の標準記録では60分。今日は塚原さんの力量が分からないので、それを少しペースを落とし、70分で走ることにする。

走り始めて、彼はどんな呼吸法が良いでしょうかと聞いてきた、私は「吸って吸って吐いて吐いて」の2回づつ繰り返すやり方を薦めた。

最初、コースは南に向かい、大きく曲がって東に行くが、その地点で8分を超えていた。通常より2分も遅い。

これは老人力が発揮されていることで喜ばしい。(記録が悪いことを悲しく思うようでは、スポーツは楽しめない。どんなときにもそうか今日は老人力を発揮しているのだと思うと、違った見方になるはずだ。・・・・ごめん、実は私もまだ本当に老人力のお世話になるには至っていない)

もう一度道は曲がって坂を登り始める。この坂は半端ではない。本気の坂だ。どれくらい本気かというと、変速機のついた本格的な自転車でここを登っている人間を自分の足で走っている私が追い越すことがあるくらいのきつい坂だ。もっとも私に追い抜かれて悔しいと思った自転車やさんは、坂が緩やかになってから私を追い抜き、やおら向きを変え胸をはって消えていくものだが。

マジッスか?彼はこの坂をこれから登るということを信じられなかった。その坂で塚原さんは苦しみ始めた。彼は名古屋の出身だ。

「名古屋の人間に意地はないのか?おみゃあさん」と私が分けの分からないことを言うと、彼も何やらわからぬ奇妙な掛け声を出して速度を上げた。もちろん、それは歩いているのと寸分たがわぬほどのものだったが。

この坂の厳しさが読者に伝わらないようでは、私の筆者としての力量を問われてしまう。塚原サンだって長距離ランナーではないにせよ、通常の同年代の人間より優れた体力を持っているし、ちゃんとジムにかよって練習もしている。しかし、ジムの中で、かわいいおねえさんのお尻を見ながら、マシンを漕いでいるのと、この坂を大汗かきながら登っていくのでは厳しさが違う。それでも彼は苦しみながらも気力で坂を登りきった。

きっと心の中では「えらいことになってしまった、マラソンが厳しいのは覚悟していたが、その練習がこんなにきついとは思っていなかった。まして最初の日からこんなひどい目に会うなんて。」と感じていただろう。

しかし彼は間違っている。最初の日も、本番の日もマラソンとはこんな厳しさの継続なのだ。なんだが、根性ものの小説みたいになってきたが。

坂を登りきったときに、ここで半分と言うと彼は再び、「まじっすか、もうあと2−3Kくらいと思っていたの」と恨めしそう。

しかし何事も初めがあれば終わりがある。あと2Kの地点で下り坂になった。ここから通常ならどんどん飛ばすのだが、今日は遠慮してゆっくり下る。ゴールに着いて二人でにっこり笑えたのはめでたい。

前哨戦 その6 11月29日

日本人グループとチリ人で初の合同練習。ところが、日本人側の二人(渡辺、塚原さん)は来たけれど、会社の同僚チリ人のリカルドがこない。コースの途中でぶつかるだろうと考えて出発。三人は順調に走り始めたが、例の厳しい坂の所で、塚原さんが苦しみ始める。で、途中コースが遠回りするところを彼だけショートカットして先にいってもらうことにする。じゃこの先で一緒になりましょう。

彼と分かれた私たち二人はペースを落とすことなく坂を登っていく。で、ここら辺りで合流のはずと言う所にきたら、塚原さんがいない。しようがない、あちこち探し始めるが見つからない。しかたがないので、12Kコースを走ってアパートに戻ってきた。そのころ、なんと彼はリカルドにあって私たちを探していたのだった?そんな馬鹿な。

彼ら二人がどう走ったかは聞き逃した。

前哨戦 その6 (12月6日)

先週、一緒に走れなかったリカルドは、前日の金曜日会社で「今週は一緒に走ろうね。逃げないでね」と固い決意をして私に言った。

そんな、勝負じゃないんだから。

で、受けて立つことにする。日本人二人は所用でこれなかったので、二人で走ることになる。今日は通常コースの16Kだ。

走り始めてすぐ、彼は言った。

「もう少し、速度を上げますか?」

「まぁええやん、丘の上に上がって平坦なところでピッチをあげよう。」

私は彼の挑戦には応えず、おとなしく応対する。

ところがそのリカルドも厳しい坂の上りにぐったりしてしまい、丘の上の平坦なところに来たときはエネルギー消耗が著しく、速度アップどころではなかった。私に少し速度を上げようかとからかわれる。

それでもなんとか私についてきた彼だが、最後の2Kになって精根尽きたという顔になってしまった。で、私はほとんど彼の手を握るようにして(実際に手を取ったわけではない)並んでゴール。

彼は今まで毎日のようにランニング練習をしてきたが、長距離の練習はしてこなかったとか。私は仕事が終わってから夕方走るのが好きだが、彼は朝5時半に起床、6時から7時まで走っている。

この日の屈辱をはらさんと練習にいっそう気合を入れたリカルドはその後、わずかな期間で私とまったく遜色のないレベルまで追いついてきたのは見事なもの。それは本番の記録を見てもらえればわかる。

彼は身長190CMの巨漢だが、体重もオーバーだった。それが私と走り始めて

何と10KGも減少し、スマートになった。同僚から病気じゃないのかと言われているが、彼の病気はマラソン病だ。このペースを冬になっても続け、寒い朝、凍えそうになりながら、公園の周りを走っているらしい。

前哨戦 その7 (1月17日)

その日は私の57回目の誕生日だった。リカルドはずいぶんはりきっていて、日本への休暇旅行から戻ってきたばかりの週から私との練習を待ち望んでいた。もちろん、それを子供のように軽軽しく表現はしなかった。彼は「藤尾さん、来週は逃げないようにね。」と笑って言った。

で、その日、渡辺さんと三人でコースにでる。最初はゆっくりだんだん早く、最後は全力。これが私たちの合言葉だ。

急な坂を登るところで、渡部さんが遅れ始める。私はペースを落とし、彼の横につく。折り返し点までがんばった彼だが、そこまで。

リカルドと私は彼を残してピッチをあげる。しかし上げすぎ。で、コースの残り2キロの地点でリカルドもへたばる。しかし意地を見せて、泣くこともなく汗をまきちらしながらゴールを目指す。

いままでの彼の記録は83分、80分とかだったので、今日は何としても80分を切りたいというのが彼の願いだった。ゴールが近い、彼の速度があがった。ゴールに入って時計を止める。なんと76分38秒だった。新記録。大幅に記録を縮める。

彼が85分から始めて、75分に来るまで、私はいつも彼の横を走ってゴールしている。つまり彼のどの速さにも対応できると言うわけだ。

しかしこの先、彼がさらにレベルを上げれば、そうはいかないだろうが。

アパートに戻って、二人でミネラル水を飲んでいると渡辺さんが戻ってきた。29歳の彼には57, 45歳の中年ランナーに軽く置き去りにされるのは理解できないだろう。しかし次回がある。

(ところでその渡辺さんはこのあと事故で足を怪我したらしく、これを最後に私たちと走る機会は回ってこなかった。)

前哨戦その8 04年3月6日

しかし練習にも気合が入って、最近では私は週に5日走っている。今日はリカルドと二人で、1周16キロのコースを2周しようというもの。私は2月15日の日曜日に既にこの2周練習を一人で経験している。リカルドが夏の休暇で海辺にいたころだ。そのときの記録は1周目が83分50秒。2周目は93分05秒。ただし2周目はもうバテバテだった。

その1周目、私の身体は、このリズムは遅すぎると何度も私にクレームを出したが、頭のほうが冷静に、これで良いのだと速度を上げなかった。ところが2周目になると身体のほうがいやがってもう止めましょうというのを無理やり走らせたことになっている。さて今日はどんなことになるのか?

去年一緒に走った日本人二人は、今年になって一度も一緒に走ったことがないが、多分、二人とも走るのがいやになったか、彼らの速度と私たち二人のそれが違うので、気持ちよく走れないかのどちらかだろう。しかし二人から連絡がまったくないのが寂しい。

前日、チリの南部で最大のトラック会社の人たちと昼食会、商談が合ったが、そこで雑談時に私が同僚と明日32K走るというと全員あきれていた。いつまでそんな馬鹿なことをしているんだというわけだ。確かに。

当日、朝6時前に起床。6時に朝食。7時半にアパートの外に出てリカルドを待つ。彼が40分を過ぎても来なかったので、今日は彼もいやがったのかと一人で走ることを覚悟する。一人でウォーミング・アップをしていると彼がついた。準備を整え、予定通り8時出発。普通、1周の時は9時出発だが、2周の場合は少し早く出ないと外気温が高くなってしまう。

最初、かなり遅く出発した。私も前回のエラー、最初早すぎて2周目につぶれたのを繰り返すつもりはない。

何とか1周目を89分42秒で終える。前回よりずっと遅い。アパートに預けておいた補給品を口に入れる。お菓子と果物、それに飲み物だ。2周目の開始。そして確かに前回とは違った展開になった。つまり1周目にエネルギーを使い果たさなかった二人は2周目に入って逆にピッチをあげ、なんと82分28秒でゴール。前回、私が一人で走ったときの記録を上回る。

そうだ、やっぱり最初はゆっくり。これを学ばなければいけない。二人は頭に刻み込む。

前哨戦の最終戦 4月9日(金)

しかし今まで走りこんできて、この日が最後の練習かと思うと、一抹の寂しさと喜びが交じり合って、複雑な感じだった。この日は復活祭の祝日、カトリックの人なら、教会にお祈りに行き、魚介類の食事をして伝統にのっとった一日を送るはずだが、私たちは宗教よりスポーツと、はりきっていた。いつものとおり8時半に塚原さん(彼は再び練習に復帰していた)とリカルドがついた。

軽く身体を暖めてから、9時出発。今日の目的は二つあった。

一つ目は速く走ることではなく、あさっての試合に向けて身体を調整することだったので、いつもの16Kコースを完走するのではなく最後をショート・カットして12Kにする。

それともう一つの目標は、3人一緒にゴールするということだ。

本番を二日後に控え無理するのは馬鹿だが、練習しないで筋肉を休ませてしまうも愚かなことだろう。

3人はかなり遅い速度で出発した。

ハーフマラソンなら私のベストは1時間40分くらいだろう。フルの途中計時で1時間50分くらいだから。つまり1キロ5分で走りきれるはず。

私とリカルドのレースでの目標は1時間50分台。つまり1キロ5.5分くらいになる。一方、塚原さんは2時間半を目標にしているから1キロ7分くらいの速さとなる。

この日、最初は1K7分台の速度でスタートした。予定通り。

3キロを走ったところで急な坂が待っている。まじっすか?こんな坂を登るなんてと昔塚原さんが言ったところだ。

前回、私たち二人が2周走ったとき、塚原さんはその2周目をつきあったが、それでも私たちの2周目の速さについて来れず大差が開いてのゴールとなったが、今日はそれはない。最初で、最後の3人ゴール。さぁどうなるか?

急坂を三人は這うようにして上っていく。三人とも弱音ははかない。私が一番後ろから走っているが、二人の監督をしているのか、実際に疲れているのかどっちだろう。

坂の途中で、距離を伸ばすため、真っ直ぐ上がらず、コの字方に一ブロック横に入っていく。普段、塚原さんは遅いので、それをとばしてまっすぐ走るのだが今日はそんな弱者救済コースを走る必要はない。3人一緒にゴールするのだから、もし彼が遅れれば、全員遅く走るだけだ。

しかしいつもの塚原さんと全く違う姿が見え始めた。曲がり角のところでも全く快調に3人の先頭をとる。これはいける。

とうとう坂を登りきった。

何とか目標の70分でコースを走りきり、ゴールする。大喜びの塚原さん。もう少し前から、本気で練習すべきだったなって。

これで練習が終わった。リカルドは今年の目標をフル・マラソンにしていた。私もずいぶん悩んだものだ。フルに登録するか、ハーフにするか。

何年間のブランクがある。

体調が万全のときでもフルマラソンを無事に走り切った事はないのに、いかに老人力がついてきたとはいえ、まだ老人になりきれない私が無理をして42Kに挑めば、身体を壊してしまうのではないか?

しかし今を逃していったいいつマラソンに挑戦することがあるのか?もう生涯マラソンとは縁を切るのか?

じゃ、フルに登録して、調子がよければフルを走り、だめならハーフで止めるというのはどうか?

いや、逆にハーフに登録しておいて、調子がよければフルを走るのはどうか?

いろんな案が私の頭の中に出ては、渦を巻きながら流れていった。